自分の中の無価値観
この仕事をしていますから、自分のことを見つめることは必須のことで
様々な場面で、自分の反応を見つめる自分がいます。
もう随分、自分のプロフェッショナルにはなってきていますが
それでも、中核信念(コア・ビリーフ)(スキーマ)といった傷ついた自分の存在をどう癒していくかに今も向き合っている私がいます。
小学生の時に厳しめの女性教師が怖くて、不登校に一時期なりました。
学校に話して、先生はとても優しくなったけど、その変化がまた怖くて逃げたことを覚えています。
さすがにもう年齢も年齢ですから、怖がることはめったに起きなくなりましたが
それが昨年起きて、自分でも驚きました。
もう癒せていたと思っていたのに、まだ癒しきれていなかったチャイルドがいたわけです。
それからその子を癒すために色々取り組んでいますが、中々癒されてくれない。本当に大きな存在で、その子のことを時々考えては、ワークに取り組んだり、トラウマ治療をしたり、イメージ療法をしたりしています。
私の傷ついた存在が出来上がったのは、多分この教師との出会いより以前のことだと思っています。この先生との出会いは、それが活性化されたのでしょう。
そして、何十年の時を経て昨年また出てきたわけですね。
こういう脆弱な存在は、大人の自分(セルフ)がいくらしっかり育っていても、それだけでは癒されてくれませんし、大人の言う事をきいて落ち着くくらいでしたら、とっくに元気なチャイルドになっているものです。
その人が、不適応的な脆弱な存在を持つに至った経験があり、その時のまま自分の中で影を潜めているのです。
私の場合は「無価値観」を持つに至った経験があり、それが脆弱性を育んだわけですね。
人はだれしも、何らかしらの信念を持っているものです。それが適応的なものだけでしたら問題になりませんが、そうでない時、様々な形で自分を困らせることになりますし、多くの人がそのような困らせる信念を持っているものです。
まぁそれほど大きなことが幼い私の身に起きたということなので、大切に大切に扱いながら、腹を据えて取り組んでいこうと思っています。
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