日記2 2014年04月15日~2018年11月18日

2018年12月14日

スキーマ療法
2018年11月18日

10月27&28日にJoan先生のスキーマ療法のワークショップに参加してきました。

スキーマ療法というのは?
元々は認知行動療法から出発したものなのですが
認知行動療法は、日常の様々な悩みに
(悩みなんて簡単なレベルでないものも)
対応していますが

スキーマ療法は、もっと人間の根源的な悩みを扱います。
それは
生きることの辛さ
日常生活を送ることの困難さ
空虚感
解離
と言ったものです。

私は元々ゲシュタルトセラピーを長く学んでいましたので
こころとからだのつながりのアプローチが得意ですし、好きなのです。

ひとりのこころ
2018年03月16日
心のことを仕事にしているけれど
やっぱり難しいなって思います。
何が難しいか。。。
当たり前ですが、人は一人一人違う生き物だからです。

今も母は健在ですが
結局母と分かり合おうということは諦めました。
諦めるというと、何か後悔とか相手を責める気持ちとか残りがちですが
散々私自身母とのことをワークしてきて、そして現実の母を見て、話をして
諦めたんですね。

そして残ったことは、それでも母を愛している自分という存在でした。
母に理解されたい、せつないほどの想いをパンパンに持っていましたから
母を心底嫌いになどなれないのです。
そういえば、友人に親なんか早く死んでくれたらいいと話している人がいましたが
大嫌いと言いつつ、お母さんから電話がかかってくるとすごく嬉しそうな表情しているんですね。
それを指摘したらめちゃ怒られましたが。
話ずれました。

大嫌いだけど大好き

今の私の母への想いです。とても満足しています。

実は私は父親とは5歳のときに別れています。
私は父親っ子でしたから、ずっとバリバリのファザコン街道まっしぐらでした。
パパみたいな人はどこかにいないかな?
そんな感じ(笑)

しかし、数年前に居場所が分かったのですが、意識に全くと言っていいほど登らない私がいました。
今なら「あーこれが防衛機制の否認」なんだと実感です。
きっと会いに行って受け入れられなかったらと考えるのも恐ろしかったのでしょうね。
なんだかそんな自分を今見つめて、「なんて健気なんだろう」って思います。自画自賛でごめんなさい。

なぜここまで分析できたのか
それは昨年末に父が亡くなったことがわかったからなんです。
ものすごいショックで、思いきり体調崩して次々病が襲ってきてね。

そしてそこから学んだことも多かった。
ファザコン解消です。
人は皆ひとりで生きていくのだと覚悟がついた、それは思考ではなく心から思ったようで
それまで時折襲ってきた「不安」という種が全く私を襲わなくなったんです。

その辺りのことはこちらに詳しく載っています。

松戸 みゆきさんの投稿 2018年1月26日金曜日

これが根本だったのかって感じでした。
それまでも自分を愛する取り組みや自分を癒す取り組みを数多くやってきたんだけど極め付けって感じでね。

何が言いたいのかというと
人は皆ひとりってことなんです。
どんなにわかりあいたい、分かり合えたつもりでも
結局のところはわかりあえないんだってね

いや、孤独に生きろでは全くない。
むしろひとりを実感するからこそ、他人に優しくできると思うのです。
相手を責めるって、自分の思うようにしたい気持ち、気持ちをわかってほしい切望が隠れているから。
しかし、ひとりに腹をくくれると
人生変わるんだなってつくづく感じています。

そして多くの人間関係の悩みは
こういうことが関わっていると思います。

しかしこれを読んで「そうか!ひとりを実感すればいいんだな」という風にはならないのが人の心。
切望して、あがいて、ほしいと言ってみて、やるだけのことはやったというある種の充実感も必須なんです。

簡単にはいかない。でも取り組む価値がある。
今は、そんな風に感じています。

2018年です
2018年01月01日
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年はどんな年になるのでしょう?
私は昨年、大きな変化の年を迎えました。
変化の大きさに体がついていかず、体調を崩すこともあり、そんな自分に自分の有り様を見つめていました。

どういことかって?

その一つをお伝えしますと
それは考えてみれば今の社会の縮図だと思います。
例えばたとえ高熱であっても私は仕事は休めないです。
私は自営業。契約を反故すれば次の仕事は来ない立場です。

しかし
それは私だけではなく、多くの人が感じていることではないでしょうか?
それでも私はまだしたい仕事ですから、贅沢な悩みかもしれません。
でも仕方なくその仕事をしている時、どれほど虚しさを感じながら体調の悪さを押して仕事に向かうのか?

思うのです。
でもその「仕方なく」の立場を選んでいるのもその人なので
私が何かを言える立場ではありません。
冷たいでしょうか。そうかもしれません。

先ほど「グッド・ウイル・ハンティング」観ていました。
その映画ではセラピーの有り様を表現していました。

共感できるような単直なような
逆にセラピストとしてあのようにいられるのか
いろいろな思いが混走しました。

あなたはどんなセラピストに話をしたいですか?
私なら?
自分の経験に嘘なくクライエントの前にいていいのだとこの映画に教えてもらった気がします。

今年はもう少し自分に自由になれるかもしれないです。
あなたの有り様にしっかり向かい合える自分であろうと思います。
自分の有り様にしっかり向かい合えることが私の長所ですから今年もどうぞよろしくお願いいたします。

朝の出来事
2017年07月05日
今私の前にいた人が席に座った
ちょっとムカついた

なんでムカついたか、考えてみました

心の中に「本当なら私が座れたのに」って。
(あーちいさい)
でも座りたいって、混んでいればなおさら普通の感覚

さらに
なんで「私が?」って思ったのかな?と気持ちを探ってみた

前の人
乗ってきた時から
私を押すように、なんか圧がかかっていたことに気づいた

そこでこの気持ちの由来がわかった

「少し圧をかけられて小さなイライラが私の中に起こった」

「圧をかけられながら、周囲の人が下車するのを機にベスト立ち位置に移動」

「運良く座った」

つまり私は、効率よく立ち回れなかった自分に腹が立っていたのに
それを小さな圧をかけた前の人に責任を押し付けたわけだね

✳︎これは別に私のせこい体験を披露したいのではなく
こうした自分の心の動きに敏感になることのススメなんです

怒りや悲しみの根っこには
その出来事の前の小さな心の動きがあるものなのです

そこを見つめていくことは、大切なこと
無駄に感情に埋もれて1日を過ごさないためにもね

今日も良き日になりますように。

 

発達の多様性
2017年05月25日
先日NHKで、発達障がいについての番組があったことで

ニッチな環境ではあっても
興味、関心の高まりを勝手に感じています

今年度は、それぞれの発達の凹凸を調べる心理検査の仕事も始まり
診断はしなくても
本人、親御さん、学校への影響を考えて
所見にはいつも頭を悩ませ、低血糖気味が続いています(ジョーク)

発達の凹凸については
それが差別につながることは、言語道断
人はどこまでもスペクトラムで
線引きは、神ではなく人間がしていることでしかない
そう思っています
と、同時に

その人の困りごとに寄り添う視点は発達障害有無に関わらず必要なことだと思うのです
何も困りごとなく、大人になれる人は少なく
生きる経験の浅い人ほど
方策が見つからないのは当たり前だから
また、
生まれつき凹凸の激しい人と
診断は決してイコールではなく
突き抜けて世界的に有名な凹凸の激しい方々を指差して
「発達障害だ」とは、言われないし言わない

診断は、その人の脳の個性と共に
環境がその人にとって大きな負荷となり
ストレスが一定以上になり、何らかしらの病的な症状を有してきたときに
つくものだと思うのです

しかし
日本は、発達障害を巡っては
マイナスの見方をする本人、環境もあれば
逆に、診断がつくことで
今までの生きづらさの理由がわかり
これからに希望を抱くこともあるので
上記のような思いを抱きつつ
診断をつける意味は
個別に変わってくるのだとも思っています

でも本来は違うと思う
日本はいつになったらそうなるのかな?

例えば(確かデンマークだった気がーうる覚え)小学校の勉強を一斉授業ではなく
それぞれが、それぞれのペースで学んでいくと読んだ

もちろん競争するから、伸びるという考えもあるだろう

しかし先日検査した子の中に、その子の伸びたい力を見た思いがしました
それは
大人からは、直してほしいところがあると見られていた子だが
自分に自然と負荷をかけていました

こういう些細な場面に
どこかに苦手さがあっても
自分に諦めずに努力する姿をみる思いです

周囲の人が
この子は直してほしいところがある子
とみるか

この子は自分の脳の特性はあっても
精一杯ある能力を、生かそうとしてる子
とみるかでは、

この子の将来は全く違うものになると思うのです
脳の機能を超えた人の力を信じたい

最近よく言われる多様性

それがどこかの看板ではなく

それぞれが自分自身も含めて
多様性の、一員なのだと気づいてほしい

私は、今の仕事でそのことを周囲に伝えたいし
カウンセリングの場面でも

「あなたはこの世の中でかけがえのない
取り替えのきかない唯一の人なんだ」
そう思い、接しています

葛藤
2017年05月21日
今夜は「葛藤」ということを思っています

人の多くは、私も含めて様々な場面で葛藤します

こうありたい、あるべきという気持ちと
こうしかできない、こうだったという気持ち

自分に言い聞かすように。。

葛藤しないことがいいことではない
葛藤は一生懸命生きようとしている証だし
もしかしたら
自身の葛藤場面を見ないようにしているだけかもしれないから

そして葛藤している時は大概
相手があって
相手がいるからこそ、葛藤するとも言える

とても孤独な時には
葛藤できることにすら、羨望の眼差しがあったりする
そんなことも思う

しかし
葛藤している本人にしたら
それは紛れもなく辛いことに違いない

と、同時に
葛藤は、どちらかを否定することで成り立っているとも思う

そう考えると
どちらも否定しない道もあるのだと
ふと気付いたりする

自分の気持ちもありのままに大切にし
相手の有り様も否定しない道

最近、私は自分の気持ちを率直に相手に伝えるようにしている
そこに何らかの注釈を入れずに、素直な気持ちを伝えようとする

もちろん実際には言えない相手もいるわけだが
そんな相手にも
自分の思いは心で伝えている
「伝えない」という選択もあるが
やっぱり見ていると抑制が働いている気がする
全く自分自身がすっきりしているようには見えない

そして同時に
伝えても、相手の行動を抑制する訳ではないよね
あなたはあなたの気持ちを大切にすればいいだけ
だって相手が何を選ぼうとそれは別の問題でしょ?

(これってすごく大切なことだと思う)

家族とか、夫婦とか、恋人とか、子供とか
ごくごく身近であるほどに
自分の気持ちを率直に伝えることってできそうでできない

そこには相手への思いや、憎しみや、愛が混走するから

当たり前だけど
そこには愛があり、情があるから

人って複雑
そして人って単純

やっぱり自分が思っている以外にはならず
自分が思っていることを自身で否定すれば
自分が病気になったり、自分が苦しくなるだけだから

あなたの本心はどこにありますか?

WISC-Ⅳ検査に寄せて
2017年04月16日
WISC心理検査の仕事を今年からしています。

いくら学んでも学び足りない思い。
WISCの勉強をしていると
どの子も
いや、どの人も
自分のできる精一杯をしているということがよくわかる
子どものことでの例えなら
友人関係で、「わ〜っ!」と怒りで行動し、関係をこじらせてしまう理由の背景に
「相手の子がいった文言の全てを理解しきれない短期記憶の弱さがあり、さらに多動という反応の良さがあったりする」
だから、耳に入った単語に反応し、パッと手が出るわけです。
片付けられないといえば、良くないですがそういう方は視覚が有意に強く、様々な情報が目に入ってしまい、混乱し、分類が難しいのです。
また発達とは関係ない大人でも、ゆったりとしていて
他の人と同じペースでこなせない方とかいらっしゃいます。
そういう方は処理速度がのんびりしているわけであって
その人があえて遅くしてズルしようとしているわけではないのです。
その逆で言えば、スピードは速いけど間違いが多いというパターン。うっかりミスさえも、その人個人の責任ではなく、その人の持っている脳のつくりというか働き方に関係しているのです。
コツコツ頑張るタイプもいれば直感型もいる
マインドマップのように視覚的な働きかけが有効な方もいれば
耳から入れる方が優位な方もいる
そりゃぁ、すべてに満遍なくできる人がいいのだろうけど
案外そういう人は、どこか一つにものすごく秀でている人に劣等感抱いたりするから
話はややこしい。
でもね、どの人も自分の脳に忠実に頑張ってるんだなって思う。
だからこそ
まだ伸びしろが多い子供への接し方は気をつけて欲しい。
そしてすでに大人な人には、自分を責める無意味に気づいて欲しい。
そう言って自分に言い訳する私は、自分が大好き♡

 

カウンセリングの中で描いた絵
2017年04月12日
「小さな種から芽が出て、自分でも自分を育て、周囲からも栄養をもらってここまできました。
まっすぐ伸びてきた時も、少し曲がった時もありながら今のあなたがいます。
そんな今の自分を書いてみてください」

この絵はこんな言葉とともに書いてもらった絵です。

この絵の解釈はしませんが
この方の思いを感じてもらえたらと思います。

この方の優しさがとてもよく表現されていますよね

カウンセラーにできること
2017年03月05日
カウンセラーに何ができるのか?

人は千差万別で、あるカウンセラーに合う人がいれば合わない人もいる。

合いすぎて苦しくなる人もいるし
合うことでホッとする人もいる。

全く合わなくて、腹が立ちわかってもらおうとつくろっていた仮面が自然と脱げちゃう人もいれば
腹立てて帰ってしまう人もいる。

それは人間同士の作用と
それぞれの自己理解の程度によるから
何が良い悪いとは言えない

カウンセリングは単なる世間話ではないし
本来、愚痴の放出場所とも違う

でも面白いのは愚痴でも話しているうちに
糸がほぐれるきっかけが出てきたりすること
もちろんそれを望んでいないければ口では「ほぐしたい」と言ってもほぐれてはこない

他人には普段話すことのない
できたらなかったことにしておきたいあれこれは
時として自分を苦しめ、追い詰めてくる

なかったことになどしておかないとばかりに
自分自身を責めてくる

そんな時
カウンセラーに話をすることで
少し救われたり
ようやく話をすることができた安堵感だったり

今まで考えもしなかった視点を提供してくれたりする

人は自分を信頼してくれる他人がいることで
今日を生きられる

カウンセラーとの関係は人生の一時ではあるけれど
支えになるのだと思う

そしていつか自分を信頼し
自分を杖に、周囲を助けにする術を身につけ
生きていくのだと思う

私もそんなカウンセラ−でいられるよう、研鑽を積んでいきたい

 

親との確執がある方へ
2017年01月09日
私自身、母とはかつて大きく確執がありました。

一番自分が支えて欲しかった時、母は、自己保身に走ったと思えたし

愛されたいと、強く願った相手だからこそ
満たされない辛さは
例えようもない底無しのものと感じた時もありました。

私もカウンセラーとして一人前になるために
母との事は自分なりに腑に落ちないといけないことだったし
ずっとワークで取り組んできたことでした。
仲間は当然ご存知ですが
母への思いのたけを叫ぶ中で、私自身が相当に癒されてきました。
愛憎が、関わる事は決して綺麗事ではうまくいかないのです。
こんな風に
自分の中の思いを表明し、頭ではなく腑に落ちる過程を繰り返す事で
私の中への母への思いが変わっていきました。

人と人との関係というのは例えるなら磁場のようにそれぞれの力関係の中で
一度できた関係はそれを変える事はなかなか大変といいます。
また、磁石を近づけた砂鉄の地面のように
そこでできた模様はそれぞれの立場やありようが複雑に絡み合うものです。
さらに、人はその環境に大きく影響されるといいますが
その磁場であり、砂鉄の模様であり、環境というのは
自分自身も大きく関与しているのだと改めて知りました。
私があれだけ嫌ったあのセリフ、あの言い回し
そこから透けて見えていたものは
母から、すっかり影を潜め
私が感じたのは、母なりの仕方で私を確かに愛してくれていたという事実でした。
さて
ここでどうしてこんなに母が変わったのだろう?と思う事は
誰もが思う当たり前のことですが
それは他でもない私自身が変わったことに違いありません
何年かかったことでしょう
母は、多分変わっていないのです。
でも以前の私の視線の端から感じさせる批判的な気持ち、母の言葉を保身というフィルターをかけて見ている私の思考
それらが母の言葉を、行動を作っていたのだと気づきます。
私の場合は、母との関係でしたが
夫婦間、親子間、職場内
様々な場でも自分が変わることで周囲が変わる可能性は大きいものと思います。

もちろんその中にはかつての私のように諦めるという選択もありですね。

 

梅干し
2016年12月31日
手帳を整理していましたら

どこかで載っていた記事だと思うのですが
書き写した文章が出てきました。

改めて書き記しておこうと日記にしています。

皆さんは梅干しを見るとどうなりますか?

「梅干し」という言葉を口にしただけで、口中に唾がたまってくるのではないでしょうか。💦
それは【梅干し=酸っぱい】と条件づけられているのですね。

でもそれは梅干しに限りません。

カウンセリングの中で辛い話ばかり何度も話させるとその度にトラウマを強化することがあります。
辛い経験を何度も再体験することになりかねません。

また自分自身の思考の癖もそうです。

「自分はなんでいつもうまくできないんだ」「私はいつも不幸だ」
そういう言葉を繰り返し口にすることで、うまくいったことには焦点が当たらず、失敗したことばかりを自分で認識することになるからです。(本当はうまくいってることもあるものです)

同じように親が子供に「あんたは本当にダメだね」といつも言っていたら、その子どもの今後はその子の生きる力に任されたものとなるでしょう。

何もポジティブになれと言ってる訳ではありません。
極端にポジティブな言葉ばかりいう人は、逆にネガティブに意識があるからポジティブにあろうとするともいえます。

でも
人は誰でも幸せになりたいと思ってることに間違いはないと思っています。
自分を幸せにすることに少し貪欲であってもいいと思うのです。

そんなことを思いつつ
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

ひとりの良さ
2016年12月21日
ひとりって良いものです

もちろんそこには「ひとりでない」という気持ちも必要です
ひとりというのは、外から見てひとりというのと
自身の内でひとりと感じている
両方があります
特に自身の内で感じているひとりは
心にあまり良い影響は与えないものです
結婚していても孤独を感じている人は沢山いますし
ひとりでも充実している人もいます
そこは色々な想いがあるわけですね

珈琲店で、カプチーノを飲みながら、ひとりの良さを今まさに感じています
カップを手で包み込んでカプチーノを飲んでいると
カップの温かみが、私の指に伝わってきます

最初は少し指が痛い感じから
徐々に温かみが指の内部にも広がっていきます
それを充分に感じながら
液体を口に含むと、口の中が一瞬で満たされていきます
「ゴックン」喉や気管支がカラカラになっていたので、液体が胃に落ちていく感覚をしっかり味わえます
また、手の温もりに意識を向けてから
飲む行為に戻っていく
これを繰り返していき
最後に、胃袋が満たされ
身体がゆるむ感覚を存分に味わい尽くしていく

私はよくこうして自分の内の感覚を少し俯瞰的に眺めます
自分を知る行為、自分を味わう行為は
自分というものの危うさを感じやすい現代人には、特に必要だと思っています。

これは、認知行動療法の手法の一つで、自分の感覚を味わい尽くすために
クライエントさんにもよくおすすめします
マインドフルに味わい、物事に向かう姿勢を身につけるための簡単で確実な方法です
こんな事は、誰かといたらできるものではありません
自分の内なる感覚に浸らなければ
微細な心理的、身体的変化に気づくことなどできません

自分の内を充実させることに繋がるマインドフルネス

とてもおすすめです。

 

想いを言葉にする事で
2016年11月16日
人は経験の中で
思いもよらない事が起き、それはその出来事に翻弄され悩むわけです。

過去にはこんな事もありました。
娘から「お母さんが家を出たとき、私のせいで出ていったのではないかと、自分を責めたし、とても悩んだ」と。
もうその話しをした頃は
彼女も大人を理解できるようになっていましたから
事実を伝え、謝り、今の幸せを噛み締めたのですが

先日その話しをしたところ
「そんなこと言った?」全く記憶にないのです。

とても驚きました。

これが母である私に伝えられなかったら
今も確実に彼女の心にそれは残るでしょうし
悩みは、心に留めおくほどに大きくなっていくものなので
大きな悩みは私を含めた周囲への憎しみになっていったかもしれません。

その悩みも
伝えられたら、伝えてしまえば
あった事も忘れてしまうほどの些細なことになるのかと。
この娘が特別忘れっぽいとか、そんな憶測はなしです。
あなただって過去に経験した気になった出来事は、今も心に残っているでしょ。
心ってそういうものです。

トラウマ、PTSDという言葉をよく聞きます。
私は、多くの人が心の傷としてこういったものを抱えているのだと思っています。
さらにトラウマは、悪いイメージを持ちがちですが、その出来事に対して自分を守る為に
カラダが起こしている状態なのです。

私たちは通常、
感覚や記憶、認知、イメージなどを総合的に受けとめて脳の中で処理が行われています。
それがショックな出来事だと
受けとめきれずバラバラな状態でそこかしこに残っていくのです。
例えば、
あの時言われた言葉が幻聴のように
チャイムの音で震えがくるように
人の目が自分を非難してると感じてしまうように

それを統合していく一つがEMDRという手法だったり、
スキーマ療法だったりするのですね。

でも今日はそんなたいそうなお話ではなく
日常の中、もしかしたら娘にしたらトラウマになったかもしれない出来事でも
しっかり受けとめてあげることで
自分の人生の中では
もう記憶にないほどの小さな出来事になりうる事が人間の素晴らしさの一端だと思ったのです。

忘れられるって
ある意味とても大切な人に備わった要素なんですね。

 

感情コントロールが苦手な子ー続き
2016年10月14日

【感情コントロールが苦手な子供の理解】
part2

最近、良い子が増えてる気がなんとなくするのですが。。。

話は戻り
カッとなりやすいコントロール苦手な子がいる一方で
過剰適応している良い子もいます

この二者は全く逆の現象だけど
表裏一体のもの

カッとなりやすい子も
怒りの感情を適正に受けとめてもらえてなかったところに原因があったのだけど

過剰適応の子も同じ

3歳の子が「ぼくだいじょうぶだよ。ガマンできるよ」
と言ったとして

本当に「だいじょうぶだったよ」とできたとして、

親はつい
「うちの子エライわ!思いやりのある子に育っているわ」と思いがちだけど

我が家は不幸か幸いかこういう子ではなかったけど

実はこういう子は過剰適応の子

この時何が起きてるのか。。

子どもってどんな親でも親を愛してるもの💓

生まれたばかりの雛が、初めて見たものを親と思ってどこまでもついていくという話がありますが
多分本能的に備わっているのだとおもう。

なので、親に愛されたいと強く強く願うものです。

ワガママいうのは、ワガママ言っても親は自分を見捨てないと思っているからできるのです。

(と、ここで発達の凹凸は脳の問題なので、発達の凹凸が強くあっての衝動性と安心はまた別のことです)

安心できないとワガママも言えない
言ったら愛されなくなってしまうかもしれないから。

でも当然だけど子どもにも感情はあって
大人よりコントロールは下手です。
当たり前です。経験値も低く、まだ大人に依存している存在ですから。

でも親に愛されたくて「だいじょうぶだよ」と言ってしまった時
自分の感情とどう折り合いをつけるか?

それをないものにするようです
いわゆる解離です

現代の子の中には解離を起こしている子が多いそうです

良い子が増えている所以でしょうか。。

大人が肯定する感情は、子どもの中でも受け入れられ
大人が否定する感情は解離して無き者にする

そうすると何が起きるか。。

感情は無き者にしても
自分の中でなくなりませんから
耐えて耐えて耐えられなくなると暴走をはじめます。

その最悪が殺人や自殺
(あくまで最悪ですから)

自分の中に天使と悪魔がいると
その子は自分である悪魔をとても嫌いますから
自己肯定感を持てないのです

天使だけになれたら、ママから全て愛されますしね

解離をする癖がついてしまうと
いじめられていても
自ら好んでいじられにいってるように見える
とか
ヘラヘラして楽しそう
と、周囲には見えてしまう

何かの事件に巻き込まれた時、当事者の子が
それまで周囲の大人に気付かれない
むしろ良い子だった
などという話がある時、その子の中で起きていることの一端がようやく見えたような思いがしました

中学生に面談していても確かにいるんです

「僕が家にいる時は、ぼぼ祖母の介護してます」
「全然嫌でないです」
聞いた時は、何か違和感を感じました

だって自我が出てきて
存在そのものが尖ったナイフのような時期なのが正しい成長ですから

でも、誰も疑わず「良い子」と、周囲の大人は言います
それはそうでしょう

でも、ここまで書いてきたように
それはそうではないのです

大人になってから
漠然とした虚無感、生きるエネルギーの乏しさにつながらなければ良いなと思う

生きるエネルギーは、自分の中の感情、身体感覚から得られるものです
そこを活発に感じれば、大人社会の理不尽さに腹が立ったり
周囲の風潮に違和感感じて、不登校にならざるをえないこともある
でもそれは正しいことなんですよね

中には良い子のどこが悪いんだ
と、言われるかもしれません

良い子が悪いのではないのです
自分の感情をおざなりにして良い子を演じてしまうのが子どもの心配なところなわけです

大人だってお年寄りの介護は大変だし、イライラする事もあるし、自分の時間がなくなると悲しくもなる
それを感じながらも大人は、今まで世話になった人だし
とか、親だから当たり前とか折り合いつけるわけですね

でも子どもは折り合いつけていません
そこが問題なのです

もっとそういう子に目をかけないとと
今まで以上に思ったことでした。

 

感情コントロールが苦手な子
2016年10月13日
【感情コントロールが苦手な子供の理解】
part1

こんな風に書くと
ADHDの子供たちを思い出すことも多いけれど。。

子育ての中で自分も反省なのだけど
プラスの出来事を子どもに言葉で返してあげることは
比較的されている親御さんは多いと思うのです
「嬉しかったね〜」「楽しかったよね〜」

でも地団駄踏んで怒っている2歳の子を前に
怒っている気持ちを汲んで

「怒ったね〜怒ったね〜、いっぱい怒ったね〜」などと言う親はあまりいません

ワガママ言ってると一刀両断はよくしてしまう

第一怒ってるときに、相手の子が存在していて、その親も目の前にいたりすると
親自身が
自分の中の良い子でいたい気持ちが刺激されて
良い親を演じようとします

そこで出る言葉は
自分の子に「我慢しなさい」とか「順番よ」などです

確かに言ってた。言ってました。(反省)

でも、2歳児(これ結構重要)に必要なのは
自分のどんな感情も外に出して良いんだという経験
出しても安心できる体験

泣いても笑っても親は受けとめてくれる
それを言葉として親が言葉で返してくれることで
この感情は「怒る」ということなんだ!と知っていく

それをしてもらってこない子が
小学校低学年で「お前殺すぞ」「死ねばいい!」などとゲームなどで知った言葉と自分の感情を擦り合わせてぴったりきたから、口にしている
周囲から見たらそれが暴言といわれる。

そんな図式。

そうなってしまったら
もうダメかというとそんな事はなくて

いくつになっても、その気持ちを感じさせて親や担任がしっかり受けとめて
そしてそれを言葉に変換していくことが大切

大人の私たちだって

周りのママさんを前に良い子でいようとするのは
同じようにされた、そんな親の姿を見て育ってきたから

「そうか!こういう時は自分より周りの目を大切にするんだ」
と、子どもの時のママが学び
自分の中の小さな悲しみ(お母さんは、私より周囲を大切にするんだ)と
適応の仕方(こうしないとお母さんに愛されない)

そうして、子ども心に自分より周囲を大切にすることを学んでいくもの

だから子ども第一にできないと自分を責めても
無意識のなせる技だから仕方ないことで
責めるより癒すことを主眼にしていってほしい

ママの感情だって受けとめてもらえることで安心して手放せることができるものだから

いつからでもいつまででも可能なこと

 

感情はあってないようのなもの!?
2016年10月03日
「みゆきは単純すぎ!に反論してみる」

だいたい感情などというものは
その人の認知に大きく影響を受けているものだから

極論言ってしまえば
現実には、あってないものようなもの💧

と、ここまで言ってみて….
逆のことを言ってみる

もちろん感情はすっごく大切なもので

これを感じることができない人は、必ずと言っていいほど
生きづらさを抱えていたり、体が自己表現して病気にしてくれたりする

そうでなくて、感情なんていらないさ!無駄なものさ!と言葉にしている時点で
実は感情がものすごく気になっていたりするから

まったく人間というやつは面倒な生き物(そして愛すべき生き物)だなと思う❤️

だからこそ
自分の気持ちというのは理解して、抱きしめてあげて、なだめてあげることに大きな意味があるものです❤️

大切にしろと言いつつも

今目の前の人が、ムカッとしているからと
そこを間に受けるのは間違いの元

それは自分の感情ではなく目に見えているだけの相手の感情で
本物かどうかは実に怪しい

だって自動思考はどんどん流れているものだからね❗️

それに何にムカッとしているかだって、分からないもの

それを何度も何度も忘れないようにと
同じ自動思考を繰り返し想起し
自身を苦しくさせているのは、生きるのが苦しくなるのではないだろうか?

私も、題名にあるように
さっき怒ったくせに

美味しいものが目の前に出た途端(話題だけでも)
ニコニコするのは自分に責任を持っていないのではないかと
いうような空気を感じて(言われたのではなく、あくまで空気)

反論してみようと思ったわけだ。

だいたい
ムカッとした気持ちは大きいのでそこに呑まれるが常だが
実はよーく感じてみると

他の感情も現れているのが普通だと思う(それが全く現れない人もいるが、社会で何事もなく過ごしていることを願う限りです)

何か言われてムカッとした、💢

その下には、ちょっと相手に悪かったかなとか、

この人疲れてるのかなとか、

私もちゃんと伝えなかったよなとか、

あーいつものことだわとか、もう関わらないようにしようとか、

まぁ様々な自動思考がこれまた出てきているのが通常

そんな様々な自動思考に気づけると
自分の方向性に選択肢が持てるというか
余裕が出てくる

これしかない、この感情が全てと思うほどに
怒りや絶望は強くなり、関係悪化をたどりやすいと思います

怒りながら、関わらないという選択肢を持てなければ、ずっとそばにいながら怒り続けることになるし

怒りながらも悪かったなという気持ちを持てなければ、相手を許す気持ちも生まれないです

なので私は
単純で何も考えていないように思われることがありますが
単純な中にはいろいろな思いがあること理解して欲しいですね

自分の中から湧き出た素直な気持ちを味わいながら
誰とどう関わっていくかを考えていくことが大切だと思っています

そして認知の癖は変えることができるものです‼️

慣れ親しんだ考え方というのは、とかく表面上に浮かんできやすい。あたりまえです。
慣れ親しんでいるのですから。

しかし
今どう反応するかは自分で選ぶことができるという意味で
多彩な可能性があるので
あってないようなものという表現を本日はしてみました。

もちろんあえて呑まれる選択肢だってあるわけ
一人飲みたい夜があるようにね🍺

 

マインドフルに接してみる
2016年09月26日
マインドフルネスは
最近あちこちで聞かれるようになってきましたからご存知な方も多いことでしょう。

体験系と思考系のワークがあるのですが
私自身セミナーで実際やってみているのが体験系ワークです。

みなさん、普段何かを食べる時にはほぼ無意識に口に運んでいますから
何かを感じることは少ないように思いますが
これを意識的にすることで豊かな世界が広がるのも事実です。

みなさんも「中華屋のもやし炒めが食べたい」と思えば、ごま油の風味や塩加減、シャキシャキとしたもやしの食感や皿に残った、油と水分が混ざった汁を思い浮かべるのではないでしょうか?
それを食べる時にも実際に改めて感じ、よく味わってみることがワークになります。
ワークですので、最低でも10分くらいかけて一口をじっくり味わっていくのですが
今読んでいる本に面白い事例が載っていたのでご紹介です。
➖「マインドフルネス&スキーマ療法」伊藤絵美著➖

「嫌悪刺激に対するマインドフルネスのトレーニング」です。
つまりどういうことかと言いますと
嫌いなものに対して、マインドフルになってみよう
という体験です。
実は私これを読んでいて思ったのですが
嫌悪刺激に対して心を開くということは、結構得意だなと

この書籍では、「くさや」を味わう。発泡スチロールを爪でギーッとひっかく。強烈に酸っぱい黒酢を飲む。ゴカイ(釣りの餌のミミズ様の生き物)をひっぱたりちぎったりする。頭痛などの痛みにマインドフルになってみる。

このどれもいけそうです。
体調に対しても、マインドフルにしていると、安易に薬で紛らわすことがなくなります。自分の体の変化に、とっても敏感だと私自身感じています。
同じ様に感情の変化にも敏感なので、ときに巻き込まれそうにもなります。
その対処も今はずいぶん上手になってきました。(これはゲシュタルト療法のおかげも大きいです)
実感があるからこそ、クライエントさんにもマインドフルに接することができるわけですね。

マインドフルに様々なものと触れ合っていくことは、自分自身に嘘をつかないということです。
自分の感情をごまかしたり、我慢したり、溜めたり、それで時に爆発したりしないということです。

「それじゃあ家族とケンカしちゃうよ〜」
本当でしょうか?

本音というのは、「全くあいつはダメだ」という一面だけでしょうか?(ケンカは相手を否定することで起きがちです)
あなた自身の思いをもう一度見つめ直してみてね。

この本にも書かれていますが
マインドフルというのは「自分を大切にする第一歩」なのです。
自分の体験をじっくり味わうことは、自分を知ることです。

人は興味ある人に対しては、知るほどに親しみを持つものです。
自分に心の底から興味のない人はいませんから(表面的にどうであっても)
自分を知っていくことは、より自分に親しみを持つ、つまり好きになっていく過程なのですね。

なかなか本を読んだだけで、セルフで実践は難しいものですが
やってみる価値は大いにあると思います。
もちろんセッションもお受けいたします。

 

「怒り」は必要な感情
2016年06月06日

バット・バルマー著「怒ろう」より

今はアンガーマネジメントが盛んで
怒りを鎮めることが盛んですが

怒りも実は必要な感情で
これがあるからこそ自分を守ることができるのです

しかし問題は怒りに「支配」されること

ではなぜ怒りに支配されるのか?

それは怒りを認めていないから

そしてその感情はいけないと自分の奥底に抑圧するほどに
怒りは貴方をいじめる

(もっと私に気づいて!)と。

そういうとき、ふとしたきっかけで怒りは暴走する
もう自分では止められないほどに。。。

日常の中でも怒りは意地悪をします

貴方の大切な人に自分でも思っていない方向に自分を連れて行きます

貴方の気持ちをねじ曲げ、結果貴方を悲しませます

でもそれは仕方のないこと
心はこう叫んでいます「私に気づいて!」

私は今、
怒りを良いお友達にしようとしています
怒りは私を守ってくれるから

少しおかしく聞こえるかもしれませんが、怒りをコントロール下に置いておくことはとても大切なことです

大切な人をネチネチいじめないために
そして自分の未来を間違った方向に持っていかさないために

そのためにどうするのか
私は怒りを言葉で表現します

この本にも同じ方法が書かれていました

「あーあんなことされて私怒ってるんだね」
信用できる友人にも
「こんな目にあって私怒ってるんだ」と話します
相手を責めるのではなく、自分の怒りを表現することで友人も話を聞いてくれやすくなります

そうして少しずつ怒りを手放します
話すことで手放されていくといった表現の方が正しいでしょうか

しかし怒りが強く根を下ろしている方ですと表現するほどに次から次へと怒りが出てきてしまう方もいます
そんな時にはどうするか

どうしてそんなに怒りが湧いてくるのか
あなたの心の奥底を覗いてみることをお勧めします

でも簡単ではないんだよね
それが怖くて怒りでごまかしてきたのだもの

あなた自身のために愛するもののために
そして未来のために
奥底を覗く勇気を持ちませんか

よく感じることなのだけど
自分を好きでない人は他人も好きになれないって思う

自分を好きでないってことは、好きな自分になれていないからだと思うんだ

つまり自分の許容範囲に自分がいないから好きになれないし
そんな自分に怒りや悲しみを持ってしまう

でもそんな風に自分を追い詰めている人は
必ず他人にも厳しい態度を示します

人は誰でも自分が可愛いから

心の奥底では自分が好きだから
なのにそんな自分を好きになれない

ならそのハードルを上げてしまおうって思うのです
当たり前の気持ちです

だから結果他人への目が厳しくなるのです
そうしなければ自分を責めすぎて病気になってしまいますしね

怒りを奥底にしまうのではなく
怒りを認めていく、怒りの根っこを見つめていく、それが正しい処方箋

愛する人を傷つけないために
あなたを慈しむために

変えようと思ったその時から人生は新たな道を歩み始めます

 

「気づき」と地と図の関係
2016年05月15日

人は常にいろいろなことに気づいて生きています
例えば朝起きて「お腹が空いた」ことに気づき それを満たすための行動を起こします

生きていると「あっ、これはこういうことなんだ」と妙に腑に落ちることがありますが
それはまさに気づきです
そして 自分の心にマインドフルになっていると 気づきが気づきを呼ぶことがあります

それは例えば
自分の中に葛藤が起きた時
思いもよらない言葉を返された時
ありえない、そんな気持ちになった時

つまり心が抵抗するような時に 自分の心に寄り添えると いろいろな変化を読み取れます
最初は
絶望感、かもしれません
理解されない悲しみなのかもしれません
そういう感情を感じたくないために
押し込めている方は非常に多いですが
そんな傷ついた自分に丁寧に寄り添ってあげると 心はさらに変化をしていきます

大切なのは
そんなことを感じるはずはないと抵抗したり
そんなことは認められないと蓋をしてなかったことにしたり
自分は悪くないと責任を他人に転嫁したり
しないこと

自分の中で起きていることをしっかり認め受け入れてあげることこそが大切なことなのです

不思議なもので
感覚というのは、感じてあげることで変化していくものです

最初にかかれた図があります
これは地と図の関係です
だまし絵を見たことがある方は多いでしょう

この絵は一度に二つの絵を人は見ることはできないことを表現していますが
壺を見ている時には人の顔を認識することはできません
その逆もしかりです
それは思考や感覚にも言えることで
ある感覚をじっくり感じていると時間の流れとともにその感覚は弱まり
次の感覚(それは人によって違うものです)に意識が向きます
ここの例でいえば
腰痛を感じている人がその感覚をじっくり味わうと
腰痛という認識から痛みということを強く感じるようになり
さらにはそのことによって辛いという「辛さ」に意識が移行していきます

通常こういったことを私たちは漠然としているので
「みんな一緒くたに感じているんじゃないのかな?」
と思いがちですが
瞬間的に意識は一つにしか向きませんので
いろいろなものを感じているという方は
次々に意識を変化させているというのが正しいのです
気持ちも同じで
「辛く悲しく苦しい出来事」というのも
その瞬間は、「辛い」であり
ある瞬間は「悲しい」であり
また「苦しい」なのです
もちろんそれは喜びの感覚でも同じことです
そしてそのように自分の意識にじっくり向き合っていると
例えばある時は
幼かった自分が味わった辛さを腰痛が表現していることに気づくこともありますし
このところ自分を省みずにいじめつけるように活動していたことに気づくのかもしれません
何に気づくかは人それぞれなのですが

そこで何かに気づくことが重要なのです
それはほんの些細なことであっても、「あぁそうだった」という体験は人生にとってかけがえのないものになっていきます

私は日常の感覚がこの繰り返しなので
先日「そんな風に自分を深掘りしないように」と言われたのですが
それは深掘りしているのではなく
流れている感覚に正直にあり続けているだけなのです

でも世の中は
感情にフォーカスすることに慣れていないので
私のやっていることは他人から見たら、非生産的なことなのかもしれないですし
気持ちにばかり向き合うことは
何か私が弱くなるように感じるのかもしれません

実はその逆で
向き合うことで生きる意味を都度確認し
自分の中にある強さや弱さを慈しむ経験なのですが。
意識は流れている
そしてその感覚はまぎれもない自分個人のことなのだと。

そして不思議とその感覚を同じように感じている別の個人と共有できると
それは人と人との間に流れる優しさや愛おしさ、慈しみといった感情につながっていきます
人は人と繋がれるといった感覚です
そんな体験をあなたにも味わって欲しいと思っています

 

人工知能とハピネス度
2016年05月02日


先日所属している団体から定期冊子が届けられ
そこには人工知能によって、統計的尺度から見つけられた人々のハピネス度について書かれていました。

現代はなんでも効率優先の時代で
効率に見合わないものは、「仕分け」「無駄」という名の下に切り捨てられましたが
実はそうではないことを人工知能は教えてくれている気がします。

〜〜〜〜
コールセンターに勤める従業員に名札型ウェアラブル(人工知能)端末を装着しコ
ミュニケーションをとった時刻、場所、名札の揺れのパターンを記憶した結果、
売上実績のある社員の出欠が売上変動に影響を与えていると考えられていたが
実はそうではなかった。

業績と強い相関関係を持っていたのは、
従業員の活性度(体の動き)を高める人物の出欠でした。

その人物がいるのといないのとでは売上に34パーセントもの違いが見られた。
ただしその個人の営業成績がいいかというと必ずしもそうではなく、
雰囲気を良くすることで、周りに業績を出させるムードメーカー。

しかも休憩時にそのムードメーカーを中心とし雑談が盛り上がったかが
1日の業務の生産性に大きく関わっていた。
(記事にはありませんでしたが、コールセンターは女性が多い職場というのも大きく影響しているとは思います。)

〜〜〜
さらに御年84歳の師匠もよくこう言っていることを思い出します。

「今は結果を出せない人はダメだという風潮があるけれど
人にはそれぞれ役割があって、名プレーヤーが名マネージャーになれるかというとそうではなく

仕事が出来る出来ないで上司の役割を与えるのではなく、
人の話を聴ける人を上司にした方が組織はきっとよくなる」
といった趣旨の話をしていました。

まぁ現代はマネージャー職だけをやっていればいいわけではなく、プレーヤーも同時に要求されているから
どこまで食い尽くすんだろうといった感は否めませんが。。。。

さらに組織の幸福度としては。

幸福の尺度
体の三次元の動きと向きを測定、記録する加速度センサーを使い、
7社、10組織、計468人のオフィスワーカーから延べ5000日、約50億点の加速度データを集めた。

そこに質問紙を組み合わせ、どのような動きが組織としての幸福度を高めるのかを分析した。

すると動きの多様性が幸福度と強い相関関係を示していることを発見した。
さらにハピネス度が高い企業では、企業としての生産性も高いことも分かった。

さらにプロジェクト開始後たった2ヶ月時にハピネス度が高かった組織は、そのプロジェクト自体も成功しているというのです。

まぁ考えてみれば当たり前で、意欲を持ってハツラツとそのプロジェクトに取り組んでいるということは
目標もはっきりとそれぞれが見渡せ、意欲を持って取り組んでいるということですから
成功しないわけがありませんよね。

最後に記事はこう締めています。

「体は感覚器などの情報をインプットする機能がたくさんある。

でもアウトプットする機能は筋肉の動きしかない。
あえて言うならホルモンや酵素の分泌でしょうか。

とはいえメインは筋肉の動き。

その意味で脳だけが重要視される方向は間違っていると思います。」

人工知能という最先端の技術が教えてくれる
人はロボットではないという方向性に救われる思いです。

個人的には
アウトプットするのは筋肉の動きしかないというところにも注目をしていて

私たちがしている療法の中には

「筋肉は感情の鎧」という言葉があります。

「いやだ」と思えば、筋肉が硬直するといったように
感情を筋肉が表している一面があります。

しかし「いやだ」と思うことはいけないことと教わってきているので
例えば体のコリ、痛みなどで感情を抑制するのです。

「本当か?」と思われるかもしれませんが
私も実体験していますから本当です。

自身の真実を知ることを人は恐れますが
本当は違います。
知った上で、どうするかを改めて考え今にとどまるという選択肢もあるのです。

しかし知らなければ
痛み状況に翻弄されるしかありません。

人工知能というハイテク機器が
人間の基本的な姿を見せてくれたことに感謝したい思いです。

 

自己成長のプロセス
2016年04月18日
ゲシュタルト療法では、自己成長のプロセスを下記のように捉えています。

何をもって「成長」とするかは人それぞれの考え方があると思いますが
「真の自分に気づく」ということをここでは大切にしています。

人は自分自身である時、

余計なおせっかいをしたりしません。
他人に対してその人はその人なりの考え方があると相手の存在を認めます。
自分のわがままさや怒りや悲しみも喜びと同じように大切なものとして扱っていきます。
そして
自分のとらわれから自由になっていきます。

さらに噛み砕いた説明がこちら

 

ミルトン・エリクソン「レジリエンスを育てる」を読んで
2016年03月31日
ミルトン・エリクソンを読んでもやもやした気持ちをここに書いてみようと思います。
「レジリエンスを育てる」という副題がついたこちらの本
とても素晴らしいものでした。


彼自身が複数の感覚障害、読字障害を持ち、失読症であると自身が語っている。
つまり今でいう発達障害なわけです。
しかも彼が18歳の時にポリオに罹り、体のほんとんどを動かすことができなくなるという状態から回復した方でもあります。

私自身、発達障害の方との関わりを持ち、難病患者会の理事もしているわけですが
にわかには信じがたい不屈の精神をエリクソンからは感じるわけです。
(この方、発達の凹凸があるので私のような凡人でもなく、そもそも比べようということ自体間違っているのですが)

患者の一人に、全身が激痛を伴う関節炎で動かせるのは頭と片方の親指だけという男性がいてその方に対し
運動不足だと言い放ち、動かせる親指を動かすようにののしる言葉を使い、怒りというエネルギーを呼び起こしついには男性は社会復帰をするのです。
もちろん雨季には痛みがやってくるのでその間は寝たきりになるのですが
その時期を男性は楽しみに待つようになったのです。

この事例を前に私は難病で苦しんでいる彼女、彼らを前に
なんて言えるのだろうとしばし言葉を失いました。
(治療者として関わっているわけではないので、何も言う必要はないのですが)

またこんなエピソードもあります。
エリクソンの娘夫婦が養女を迎えます。
自分たちは白い肌に青い目をしているというのに、浅黒い肌で黒い目をした子です。

人種的な差がなくても自身の子がいれば、親は差別的な行動をとりがちです。
そう娘夫婦には男の子が二人いたのです。
それでもその子は、親からも愛され
エリクソンからは特別な「ジンジャーブレッドガール」として扱われ
兄たちとは違い、特別な存在として可愛がられ、本人もすくすくと成長するのです。

さて
子供が発達障害を持って生まれた、難病をもって生まれたと知った時
親は普通にできない子を疎ましく思ったり、自身を責めたりしがちです。

こんな時、その子は特別な「ジンジャーブレッドガール(ボーイ)」なんだと親が気づけることができるのか
どうしたらより早い段階で通常以上に強い愛を持っていることに気づけるのかと
そんなことが頭を巡っています。
(実は気づくだけでなく、それを表現することも重要なのですが)

http://www.yonbunnoichi.net/sakuhin/story/

「1/4の奇跡」この映画のことも思い出します。

子供への愛を実感することと、親自身が自分を愛することは
私自身は並行してきたように今振り返ると感じています。

結局凡人の私がすることですから、少しずつの変化に寄り添っていくしかできないのですが
それでも
私の存在が救いになると言ってくれる方々にまだ何かできるのではと学び続けるわけです。

あまりに鮮やかなエリクソンの手腕に
(もちろん時代背景や今とは人の純粋性も違うと感じますが)
あっぱれな思いと、少し視点をずらすそのずらし方が絶妙なので
自分とはタイプが違うと知りつつもなんとか掴みたい思いでいる私です。

 

あなたは丸ごとそのままでいい
2016年03月14日
私のHPには「「あなたは丸ごとそのままでいい」」という言葉が書かれています。

私はこの言葉が好きです。

しかしこの言葉を受け取れない人が多いのも事実です。
「こんな自分でいいわけないじゃない!そんなの理想論だわ」
「こんな自分大嫌い」
「周囲から注意を受けるばかりの自分は誰からも認められていないんだよ」

こんな言葉たちが聞こえてきます。

そしてこんな言葉とともに、自分を大切にしない周囲への怒りや悲しみが見えてきます。

でもね
それでも私はこう言いたい

それは「今あるあなたの持ち物の中での精一杯の頑張り」だと

人は誰でも頑張っているんです
今できる精一杯の中で

だからこそ
今の持ち物の中で、精一杯頑張ってることを改めて見直す作業が必要

それはまさに
「こんな自分でいいわけないじゃない!そんなの理想論だわ」
から
「本当に私でいいの?」
を経て
「あー私はたった一人のわたしなんだ」
という想いへの変化

「こんな自分大嫌い」
から
「こんな風にしてしまう私ってなんだろう?」
を経て
「あーこころの中にはこんな悲しみが渦巻いていたから、こんな態度をしてしまっていたんだ。私、本当に傷ついていたのね」

「周囲から注意を受けるばかりの自分は誰からも認められていないんだよ」
から
「えっ、あの人私が嫌いだからこんな態度を取っていたのではないの?」
を経て
「私がとっていた態度は、人に誤解を受けるようなものだったんだ」

これらの人たちは何も変わっていません
以前のままです

でもこころの交通整理が進むと
以前と変わらない自分が
以前とは全然違って見えるのです

気持ちや想いが変われば
表情や仕草も自然と変わってきます

そう
まさに

あなたは丸ごとそのままでいい
そのままなのにね♪

自分を責める人
他人を責める人

そのどちらもが
結局こころを弱めてしまう

たった小さなミスの一つ、発言一つを責めるのはやめませんか

あなたがかけがえのない人であることは変わりなく
周囲の人もそれぞれにかけがえのない人なのだから

 

ミラーニューロンと集団での力関係
2016年03月02日
今読んでいる本では
私たちはミラーニューロンでつながっているという記述があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ミラーニューロン

<他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように”鏡”のような反応をする>

子供の頃、とても親しくなるとその友達の言いぐさを同じようにしている自分がいましたから、私はきっとミラーニューロンが発達しているのでしょう。良くも悪くも(笑い)

そして作者はこのおかげで自分の中に元々はない
自分はダメという感覚を
人から植えつけられ、それを自分のものとして自分自身を規制していくとあります。

つまり親が、親の期待の元「あなたは素晴らしい」という思いと「あなたってほんとダメ」という二重拘束をすることで
動けなくなる。
ほんとにダメになるといいます。

友人関係でも、近所の人でも、支配したがる人は世の中にたくさんいて
この二重拘束を巧みに使って動けなくしようとしてきます。

確かにこういう人はたくさんいるかもしれませんね

さらにいくら自分が頑張ろうと思っていても
つい
「もしかして悪いのは自分かも?」という思いが自身の中にあることで

ある法則に従っている可能性を示唆していました。

それは集団の中での
2:6:2の法則です。

働きアリというのは
2割がよく働き6割がなんとなくそれを傍観し、残り2割が動かないそうなんです。

これを人間関係にもあてはめ
2割がいじめっ子なら6割が傍観者となり残り2割がいじめられっ子になるということです。

つまり自分の資質には関係なく
ある集団の中で残り2割になる可能性は誰にでもあり
それがより「自分が悪いかも」と思いやすい方はそれを担いやすいということなんです

いかがでしょうか?

あなたはあてはまりませんか?

ここから抜け出すあなた自身の力についても触れていて

この方法は著者が男性なので
私から見ると男性的な解決法だなと思いましたが
そのループに入ってしまっている現状を抜けるには
必要なのかもしれません

自分が他人の噂に影響されず
自分らしく生きていく

他人の評価を自分のものとはしない

そんな自分であるように
あれるようにいたいですね

とても楽ですから。

 

変わりないあなた
2016年02月24日
たとえ結果は同じであっても
相手に躊躇して話せないと、話したくないは全く別物

それならどちらなのかは相手に伝えよう
そうでないと相手はわからない

右端の気持ちと左端の気持ちの両方が、自分の中にあっても
そのどちらかを無き者にする必要は全くない

人間というのはそういう生き物だし
そんな風に簡単には割り切れないからこそ面白いのです

「こんな風に思う一方でこんな風にも思う私がいるんだよね」

それでこそ、自分というものを自分で理解できる

でもなぜか
思うことはあっても話さないで済まそうとする人は相変わらず多いし

そもそも
「話してはいけなんではないか」「こんなこと話せない」
と、自分に大いなるものを課している人も多い

そしてそんな人ほど、自責感が強い

また
それ以前に自分の気持ちに疎い人も結構居る

自分が今、どんなことを感じているのか、それは自分の中にある感情を明らかにすること

それを率直に、なおかつ言葉を上手に選んで伝えることでしか
心あるコミュニケーションは難しい

自分をよく知って
自分らしさに気づいて

そして今のあなたでいいと思える毎日を過ごしていきましょう

その時にはきっと
自責感いっぱいのあなたと、これが私と思えるあなたでは

同じあなたでも気持ちが
行動が
態度が
違っているでしょう

でもどちらも変わりないあなたなのです

 

傷が深いと感じない
2016年02月16日
体調不良で整体に行ったのですが
以前から鍼を打ってもらいながら感じる事があります

それは。。
ここが一番辛いという場所に鍼を打っても
感じない事が多いのです

整体師には「反応すごくいいんですけどね」と言われるが
感じない

それはちょうど台風の目は無風なように。

そして鍼をしてもらった後、翌日辺りに
ようやく痛みがはっきりし
その後落ち着いてくるといった感じだったり、再度うってもらったり

まるで、一番辛いところは、自分が耐えられないので
感じなくさせているようです

同じように
心が辛い時も
まるで何事もないかのように言う人がいます

「それはしんどかったですね」

そんな風に伝えても、「いえ、そういうものですから」
その事を受け入れるには、時間や安心さを感じる事がまだまだ必要なのでしょう

私もあまりにショックな時
まるで何事もないかのようにしてしまう自分に驚いたりします
それはまるで
心が凍りついているようです

その後、ショックのあまり
動けなくなったりするのですが(笑)

なので、怒りや悲しみの感情がすぐに出てくるというのは
心の傷つきという点では
まだましなのかもしれません

それに凍りつく、忘れる(覚えていない)という対処も
実は悪いことではありません

そうして受け入れ難い出来事から自分を守っているのですから

一晩寝て、二晩寝て
傷を癒しているんだと思うと自分に優しくもできるものです

感情的になってしまう自分に気づいているなら
傷はそう深くないんだと知り

感じない自分に気づいたら
どうやって自分に優しくしようかと考えてみましょう

 

「介護者ための心のケア」アンケート
2016年02月07日
1時間という短い時間の中で、一生懸命お伝えしました

アンケート

〜〜〜


皆様の日々にお役に立てればと思います

 

感情の扱い方
2016年02月05日
不安や怒りの感情とは基本縁遠いのですが。

つくづく自分の脚本を感じる経験の中で

自分では、抑えがたい感情との接し方を
色々試してみるという
また仕事に生かせるナマのアプローチを我が身で試していました

(ここでいう脚本というのは、
ドラマなどの演技の脚本ではなく、
自分自身が幼い頃に身につけた人生の出来事への対処法だったり、
うまく対処できない事でアダルトチルドレンだと言われたり、
自分自身が無意識の中で握りしめている信念だったりを言います。

それはまるで自分の人生の中で、前もって書かれた脚本のように
繰り返し同じパターンを知らず知らずのうちに、演じているものです)

と、前置きはこの位にして(⌒-⌒; )

職場の人と接する中で色々な感情が引き出される事があると思います

幸か不幸か私は、職場程度ではあまり大きな感情の揺れを感じる事はないのですが

やはりそれが家族の事だったり、大切な人だったりすると、さすがにそうはいきません

気持ちがグラグラと揺れ動くのをどうする事も出来ない自分がいます

まぁ、それがない人などこの世に存在しませんから、これもまた当たり前の心の動きなのです

と、そんな怒りや不安は相手の様子によって引き出された感情ですが
同時に誰もが同じものを感じるわけではなく
引き出されたものは、自分固有のものなのです

何が言いたいかと言えば
「あいつが悪い!私をこんな気持ちにさせて!」なんて
恋愛女子が言いそうなセリフですが

「あいつが悪い」わけではないのですね

「あなたが、勝手に感じているのでしょう」なわけです

そこで何故そこで勝手にそんな事を感じるのかと言えば
脚本が関わっています

自分固有なものなら、自分でなんとかしないといけないですね

しかし感情は表現されないとなくならないのも事実なのです

なのでここで大切なのは、表現の仕方になります

頭ごなしに、「怒ってるの!」といっても受け入れられないでしょう

この怒りの原因を探り
「あの一言は、とても傷ついたから、もうあんな事言わないで欲しい」
とか
「感情が揺れていて自分でもどうする事もできないの。あなたの優しさが胸にしみるわ」
なんて言われたら
彼はあなたに優しくするしかなくなるでしょう

脚本はなくす事はできません
でも、その作用を弱める事はできます
私のように^ ^

色々なアプローチがあります
御自身の生きづらさがあり、立ち向かう勇気を持てたら
覗いてみませんか
私もそばにいますから。

 

みんな悩んでいる
2016年02月02日
人生というものは誠に不思議なものだと感じます

決して良い時ばかりではなく
また悪い時ばかりでもない

しかし人は不思議と悪い出来事、経験に関して忘れることは難しく
ふとした折に、そこに引きづられます
それはどんなに強がっている人でも

それは生きている証でもあるので、決して悪いことではないのですが
楽なこと、楽しいことではないのも確かです

そこで
自分の人生を波としてみたらいかがでしょうか
ひいては寄せる波のように思えると、辛い時にもまた引く時は必ずありますし
その辛さをなんとかしようとするのではなく、ただその辛さと居続ける
それこそが人の器を大きくするのです


自分が絶好調の時、誰かは足元もおぼつかない気持ちになっていることを知れば
人に少しは優しくできるでしょう

また自分が凹んでいる時
これもまたよせては引く波のようなものだと覚えておけば
必ず時がまた気持ちを立て直してくれることを信じることもできるでしょう

今は「信じる」ことが難しくなっています
人の裏を見る機会が増えていますから
隠されてきた人の心の闇を白日の下にさらす社会
自身の闇を平気で人前にさらす人間

ヤボな世の中になりました

さて
人との出会いも不可思議なものです

出会いたくても出会えない
そんなこともあります

出会えたと思ってもまた別れが来ることもあるのも事実です

それもまた人生の醍醐味というもの


自分の人生を赤い線と思ってみてください
それぞれの人がそれぞれの赤い線を生きている
交差する線もあれば
どれほど憧れても出会えない線もある
ずっと絡んで生きていく線もあるかもしれません

この道は誰が決めているのでもない
人生に翻弄されながら自分自身がその都度決めていることなんです

こんな風に人生を見ることができたら
流されているのではないことも知ることができるし
出会いを今以上に大切にできるのではないでしょうか

大切にするというのは相手に譲ったり、迎合したりするのではなく
自分自身を大切にすることからしか始められません
それは簡単であり、一番難しいことなんですね

カウンセラーに病気を治す力はないけれど、
自分と向き合って、自分を大切にし、結果相手を大切にすることにつながる
そんな関わりはきっと病気にも生きにくさにも自分の中の違和感にも良い結果を作ることでしょう

 

智慧の道
2016年01月30日
ネイティブアメリカンの長老の言葉を紹介したいと思います。
とても意味深いと感じます。
人生の中で何かをなしたいと思っている人も
平凡な人生を送ろうとしている方にも送りたい

喜びの中にいる人も絶望の中にいる人も
人生の意味を問いてる人にも…
楽になる人もいるだろう
がっかりする人もいるだろう
人生という道を歩いている方々へ
〜〜〜〜〜〜〜
智慧の道
母は善良な女性だった。
幼いころの私は、母こそ世界一賢い人間なのかと思っていた。
だから私はある日—多分まだ6つか7つだったと思うーどうしたらお母さんみたいに賢くなれるのときいてみた事がある。
母は笑って、小さいのにもうそんな事を知りたいの?と言いながらも、だけど、きかれたんだから教えてあげなきゃねと言ってくれた。
「人生って、道みたいなものなの」母は私を見下ろしてほほえんだ。
「人はみんな、その道を歩いていかなきゃいけない。寝るときだって、道で寝るのよ。
無事に夜を生きのびることができたら、朝にはまた続きを歩く。
そうして歩いていくうちに、いろんな経験をする。
それは、道に小さな紙が落ちているようなものよ。
紙を見つけたら、拾ってポケットに入れなきゃならない。どんな小さく破れた紙でも、一つ残らずポケットに入れるのよ。そうするうちに、いっぱいたまってきたなと思ったら、つなぎ合わせてみる。
そしたら何か書いてある。
たくさん拾ってあれば、意味の通る文になってるかもしれない。読めたら、書いてあった言葉を肝に銘じる。
紙はまたポケットにしまって、続きを歩く。だって、まだまだ落ちてるかもしれないでしょう。
またいっぱい拾ったと思ったら、もう一度つなげてみればいいの。
前よりもうちょっとだけよくわかるかもしれない。
ずっとやってるうちに、「ああ、そろそろポケットから出して、つないで読むときだな」ってわかるようになるものよ。
こうして読めば読むほど、人生の意味が分かってくるの。
こうして人は賢くなる。
まあ、少なくとも、ちょっと前の自分よりは賢くなれるのよ。」
アンクル•フランク•デイヴィスポーニー「叡智の守り人」より

 

心の安定に必要なこと
2015年12月28日
人の心の安定には
実は大きなことが必要なわけではないのです

とかく
生活の安定と言えば
仕事で全く心配ないほど稼いでいない
とか
今の環境では、安定しないから引っ越ししないと
とか
子育て中だから、気持ちの安定は無理など

とても大きな変化や切り替えが必要だと
思い込む傾向があるみたい

実は日々の中で大切なのは
本当に些細なやり取り

それは友人との間での会話だったり
職場での「ん?」と心に留まったやり取りだったり
家族の視線だったりという
ごく小さな気持ちの浮き沈みの積み重ねが

大きな気持ちの不安定さに関わっていたりするのですが
案外そのことは見逃されがちです

日々の中の小さなストレスをいかに早くに落ち着かせるか、
気持ちを楽に保つかに
もっと心を砕いてほしい

年末年始は、非日常なので
より気持ちが揺さぶられやすいものです

その事を自覚しながら
日々の小さな「よし♪」を見つけながら生活してくださいね!

 

クリスマスも終わって
2015年12月26日

20年以上、朝、昼、晩と食事を作ってきました

料理本も相当買ったし、目新しい料理は一度は作ってみようとチャレンジしてきた
雑誌の切り抜きも
クロッキー帳からはみ出すほどでした


そしてその結果
私が行き着いたことは

何よりも大切なのは
食事を囲むその時や場の雰囲気、温かい気持ち、そして笑顔

これに勝るものはないと思っています

何を食べるかよりも誰と食べるかは重要で

一人でも口に押し込むのではなく
楽しむゆとりを持つことは
その食材の栄養価にしても体への取り込まれ方にしても違うと思う

ちょうど先日
糖質オフを実践中の糖尿病の方が
糖質を少し食べてもバン!と血糖値が上がることもあれば
しっかり食べても上がらないことがあるというお話を伺い
腑に落ちた次第です

食べる時のシチュエーションや自分の心持ちがとても大切ってことですよね

料理ということそのものは好きではあっても、うんざりしていた私ですが
今年とても久しぶりに鳥の丸焼きを作りました

今までは自分で口にすることなどほとんどなく
子供達の喜ぶ姿を見て満足してきた私ですが

どうしても作りたくなって、結果その責任を毎日とっています

そして思うことは、料理っていいなってこと

誰かのために作ることも、自分のために作ることも
「生きる」ことを大切にしているような気がします

料理は、日々の中に流れがちな思いきりの日常だからこそ
大切にしたいし
大切にできる生活をしていきたい

日常こそが「生きる」基本だということを忘れずにいたいものです

 

人との距離
2015年12月09日
他人と上手に距離を保つ事の難しさを思う

私も昔は侵襲されがちだった
自己反省するタイプは
自分の正しさを主張する人たちからすれば
格好の存在になりやすい

すると
自分を責めるタイプと
他者を責めるタイプとでは
他者を責める方がこの世の中、良いように思えてきます

それが現代社会の有り様にもなっています

でも本当にそうなのか?

人間の成長という視点から見たら
他者を責める方は自身の成長に結びつきません
よほど自分の有り様を悩む方の方が
人としてあるべき姿に近づく事でしょう

しかし
自己反省するばかりでは
辛くなるばかりなのも事実
そして侵襲されてばかりでは
メンタル不調にもなりかねません

そこでふと
自分はどうやってそこから変化してきたのだろうと…

そこを振り返る事は
同じような方の助けになるように思います

例えば
たとえ一瞬の出来事であっても、
自分を認めてもらった、受け入れてもらった経験を大切にする事は
大変大きな力になるようです
相手の誠意を素直に受け取る力は、私を助けてくれたようです

またゲシュタルトワークの中で
何度も
他人(それは家族であっても)との境界線を引き続けてきた事も
自分の守り方を身につけていく上で貴重でした

そして
自分という人間の長所も短所も含めて
「これがわたしなんだ」
たとえ短所でさえも、時に私を支えてくれている事に気づくと
生きる事がとても楽になりました

そして今は他人との距離感も保てています

そこには
自分自身の環境設定も大きい
人に流されて不本意な事を受け入れなければいけない状況には自分を置きません

そして、「今の私」がいます

さて
他人との距離を保つという最初の話が何故出てきたかといえば
傷ついている人格障害の方の存在です

それは
切ないほどに願うほど、
純粋すぎるのか、はたまた不純なのか
その行動は、破滅的になってしまう

多分ボーダーの方などは
人の中にある純粋性に共振する

だから相手からするとその純粋性を侵されることに恐怖を覚えるのだろう

そう思うと
改めて願いが叶わない切なさを感じつつ
大人になる事は、子供の頃に描いていた桃源郷をすてる事なのかもしれないなどと思ったりします

自分でいいという強さは
大きな安定や安心感をもたらし
何物にも代え難いですが

人に依存し甘えるこそばゆい感じや
誰かに満たしてもらう幸福感も必須ではなくても大切なものでしょう

そのどちらも手に入れるには
やはり自分への謙虚ある信頼感を育てた上でないと難しい

そんな事を思いながら
今日もカウンセリングに励むのでした

 

無意識について
2015年12月03日
下記のブログを読みながら
http://kenokano.blogspot.jp/2015/11/blog-post_27.html?m=1
またオープンダイアローグで、斉藤先生が
「転移、逆転移などという面倒な事を起こす事なく、患者が良くなっていく。
転移などという関係は、必要ない」とまで
言った事などが、私の頭の中で
渦巻いています。

そもそも
無意識というのは、なんだろうという想いがこのところわいてきます。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/無意識

私自身の事で考えてみると
ある時、モラハラ的な態度を取られた、その後で
自分自身、全く意識していない所で
相手がそこは察してほしい、理解してほしい所で
相手を傷つける態度を取った事があります
それはまさしく無意識なのかもしれません

でも自分の心が健やかにいられるようになると
そもそも
そんな存在は、私の側にやってこないし
相手との関わりの中で
想いもよらない自分の態度、行動などという事は
ほとんど起きてこない

「何故、人は私に対して威圧的(依存的)なのか」とかいう事も起きてこない

自分の態度や行動への、批判を自他共に受ける事がないと
無意識というものはなんだろう?という疑問がわいてきます

意識の底には巨大な無意識が横たわっているのか…

オープンダイアローグで重要なのは
社会的生き物である人間は
人間との真摯な関わりを求めていて
それを実践するという、実にシンプルな事

心に深い傷を受けていれば
それを修復する作業は、必要だけど

時に修復が目的になっているように感じる方がいます

自分の身に起きたショックな出来事に対処や意味を見いだす事は大切だけど

自分の状況や
自分という存在への探求を始めると
そこは底なし沼のようになってしまう

ある程度の理解は必要だけど
私が行き着いた先は
自分の様々な性格や側面は
全て
自分という存在を受け入れる方向だった

改めないといけないものではなかった

もしあなたが自身への探求をしているなら
自分が心穏やかになれる場、時間、人、
自分が、声を出して笑えるように自分を持っていく事の方が
どれだけ重要なのかと今になると思う

身近にそんな悩める方がいるなら
多くの言葉や薬より
その方をギュッと抱きしめる事の方が
どれだけ多くの癒しになるだろうと考える
(よほど身近でないと問題も多いが)

もちろん複雑に絡み合った糸は
他人から見たら
到底理解不能という事はあるし
そこに人間の深遠さを感じる事もあるのかもしれないが。

昔の日本人は、実におおらかだったという話を聞きながら
人の心を複雑にしているのは
他でもない私たちの脳が作り出した虚構と言っては言い過ぎなのか

シンプルに生きるという事は
複雑な現代社会では
かえって難しいのかもしれない

 

コミュニケーション
2015年11月28日

コミュニケーションはキャッチボール

セミナーで、よく、使うセリフです

強い球をこちらが投げれば、相手も強い球を投げ返してくる
受け取りやすい球を投げれば
相手も受け取りやすい球を投げてくる

とても基本的でシンプルなものです

コミュニケーションの本が中学校にありました
その中で心惹かれた一文を皆様に。

「完了したコミュニケーションが私たちに生きる喜びをもたらし
未完了なコミュニケーションが私たちから
生きる望みを奪う」

「未完了」とは、
投げたボールを受け取ってもらえないこと
または受け取らないこと
あるいは受け取れないボールを投げつけられること
投げつけてしまうこと。そして
なぜなんだろうと
その答えをひとり、探し続けている状態

未完了な時には
未完了であることに気づけない
相手が悪い 自分が悪い

明らかにどちらかに問題があるという時もありますが
日常の多くは
相手が受け取らないのか、自分が受け取らないのか
真実は実に曖昧で
空回りばかりです

ただ一つ言えるのは
ひとりその答えを探している時
それは相手だけが悪いのでも
自分だけが悪いのでもないということ

相手の言葉に自分の言葉が引き出され
自分の言葉に相手の言葉が引き出されただけ

今ここで考えたいのは
他人との関係ではありません
身近な存在や、家族との関係においてです
つまり身近な関係を作れるだけのコミュニケーション能力が前提となったうえでさらに考えてみたい

コミュニケーションにはそれ相応の努力が必要なのか?
それとも自分を丁寧に表現すれば大丈夫な関係はあるのか?
つまり
自分を表現することが
お互いの幸せに繋がる
そんな関係はありうるのか?ということ

あなたはどう思いますか…

 

向き合う力
2015年11月22日
親のことを憎んでいるという人がいる

「色々苦労させられてきたから」

会話にのぼることも嫌がるその姿は切なささえ感じます

きっとその人にとってはそうなのだろう
その人の表面上の事実

しかしそう言いながら
「しかたない」という理由であれこれ金銭的援助をしている姿に

家族模様が透けて見えるようです

愛が歪んでしまったところにこそ
その人の悲しみが見えてきます

自分の哀しみを見つめる事さえできない
事は
そこはかとない不安を常に抱える事になります

そして言える事は
何十年もかけて作り続けてきたものを変える事は難しいとも言えるし
一瞬で変わる事もあります

それはカウンセラーの力ではなく
どれだけ向き合えるかという本人の力にかかっているのだと。

悔しいけど事実です

ただ、私はそんな向き合う辛さに寄り添っているだけなのかもしれません。
そしてそれは簡単なようで、簡単でないのも事実です。

 

一体感
2015年10月15日
欲しても得られなかったものに光を当ててくれると

光を当ててくれた人をとても身近な存在とみるようです

だけど闇だった事には
それなりの理由があったので
そこを受け入れてもらえると

急速に

感覚としては、自分と一体となり
一体感ゆえに
自分の中にある様々な自分が抱える歴史を
その人に結びつけて
その人を見ているようで見ていない
そんな事によくなる

ちょうど
欲しくても得られず諦めていたものが手に入ると
嬉しすぎてショート起こして
何も感じない時のように
(これはショックすぎる時にも起きるけど)

そんなものは欲しくなかったかのように
扱ったり
素知らぬ態度をとったりする

そうして
その人にとって
すごく大切な人に違和感を感じさせる
(カウンセリングでは、この違和感を取り上げたりするのだけど)

一体と感じなければ
そんな風にはならない

そういう意味では
他人には善良になれる
他人には感謝を告げられる

そんな資質を自分の中にみたり
他人の中で感じたり

そんな行き違いの相談を受けたり

自律というのか
その人の中に揺るぎない自分がいれば良いのだろうが
いや揺ぎなくても
それでも人と繋がりたい願いを消す事は難しい

最近
私は思う
自分と、一体と感じる事は
感じたいと願う事は
幸せに通じないのではないかと

幸せというものも
一歩引いた客観性?
相手の個を認める、侵略しない領域を意識する
そんなものが必要だと

「いつも一緒にいてほしい」

「おまえ、こういう所直したら」

「全ての行動を把握していたい」

そんな気持ちが何故起きるのか?
そんな所を見つめ直す事も必要かもしれません

そしてせっかくのプレゼントに相手が素っ気なかったら
それはフリーズしているのかもしれません。

あまりに嬉しすぎて。。。

 

ゼラニウムと息子
2015年10月11日
先日に引き続き
今日も息子話題で。
昨夜息子が訪ねてきた
私が頼んでいたちょっとしたものを持ってきてくれました
そこで気づいた自分の変化
息子を愛していることに変わりはないのに
そこに数々の私の心の痛みや分かり合えない苛立ちや悲しみ
今の現状への不満
そんなものが泥だんごのように一緒くたになって
しばらく息子の前ではぎこちない私がいました
「こんなこと言ったらなんか詮索されちゃうかな」
「また傷つけちゃうのかな」
「あーでもいいたい」
みたいな(笑)
でも私考えたんです
何を一番願っているのかって

それは息子の幸せ

人は自己満足だけでは本当の幸せを得られないと思っています
そのことも含めて
彼が幸せを感じて欲しいことを
素直に願うことにしました
思い出すと彼の幸せを願っています

「どうか彼が幸せでいられますように」「より幸せになれますように」

これをするようになって少しずつ少しずつ変化して
昨夜はとても息子との時間が穏やかで幸せなものでした
思うことをさらっと言葉にすることもできました
散々悩んだから今があるのかな。。。

最近蚊に悩まされているという息子に
ゼラニウムのオイルを渡しました
患部につけると治りが早いよ
それより蚊が寄り付かないオイルのが良かったか。
次回はそれをプレゼントしよう

帰り際に
おいでおいでと手招きして
嫌がる彼を無視してハグしちゃった

 

息子の幸せ
2015年10月02日
私には息子がいます。
もう27歳の大人です。

でも先日家の前を夜に通って
部屋が暗かったから
仕事しているのかと思ってSkypeしたら

なんと窓に光が漏れないようにアルミホイルしてると返事が。。。
(唖然)

本当なら朝日を浴びるほうが健康に良いとか思うし

たまには外に出るように映画に誘ったりしますが
私の心中を察してしまい
見事に断られてしまう始末

一応仕事もしているようですが(農家)それも仕事と言えるのか?という状態なようで

母としては離れているだけにじれったい思いを抱いています。

息子は生まれつきの難病があり
普通に楽しんだり悩んだりする機会を奪われてきました
発達障害も持っていただけに
4世代という大家族の中で
なんでああなの?あんな子がいることが恥ずかしい
などと言われ、試練を味わってきました

その結果が今なのだと思い
受け入れているつもりでも
アルミホイルなんてことを聞くと、私の心が穏やかでいられません

私がこの道に入ったのも息子のことがあってだと理解しています

親って
特に母親って
因果な商売です

なんの得にならなくても
その子の生きる道を
のびのびできる方向を探るように
考えてしまいます

今夜、息子の幸せを改めて願いました。
自分の幸せを噛み締めるからこそ
娘とは違う
息子の幸せを願う私がいました

「お前らしくあればいい、でも自分に嘘つくことなく幸せになってほしい」(合掌)

 

気づき
2015年09月26日
気づきは大切で
大好きなゲシュ先達者のももちゃんは
気づきを【小さな悟り】だと言っています

あなたは 気づいていますか?

例えば「あーそういうことか」「あー納得」「感覚がつながった」これらを気づきと言います

人は体の気づきは勘違いだと思いがち
「なんか今日は変だな」といった調子です

本当は変ではなく、気づきが起こっていたりするのですが

心の気づきは気付くだろうと私など思ってしまいますが
上手に自分を責める方向にチェンジしている
「あれあれ?」

環境も気づきに加担しているのですが
環境が自分の良いように動くはずないとして
「たまたまラッキー」
特別視してしまいます
そしてまたいつもの感覚に戻ってしまう

気づきに気づくから行動が変化するので、
頭で気づけばいいと理解しても
それは全く意味をなしません

あなたは自分の感覚を信じていますか?

多分自分の感覚を軽んじている人は
年々増えていると思う

それは理屈に全くあっていないから
いや
あっていないというより
関係ないから
(そして理屈に合うことを重視する風潮は年々高まっていると思う。曖昧さを受けいれる土壌は以前より確実になくなっています)

でもいくら「こうあるべき」と理屈で思っても
心が納得しなければ

行動は歪んだものとなり
相手にあらぬ要求までしてしまう

自分の中で感じている感覚
そのことを、どこまで信頼できるかが
自分の生きやすさにつながるのだと思っています

ただ
残念ながら
他責をする人に
悟りは得られないでしょう

悟りというのは
自分の中を振り返ることでしか得られないものです

他責をする方は
もっと根本的問題を抱えた方
自己愛の問題を抱えている方が多いです

交流分析というものを知っている方は
どうして第3の立場と第2の立場では
第2の立場がより良き道に近いと書かれているのか考えたことがありますか?
そこにも関わっていることです

第3の立場の方が自分は楽ですが、変化は難しいでしょう。
相手も自分もオッケーの道に行くには
自分という存在の中で気づきが必要なのです

あなたは気づいていますか?
「あーそういうことか」と気づいた時
人の心の中で起きることは
活性化、ウキウキ、ワクワク、納得感、
そして自分への信頼です

腑に落ちる感覚を大切にしてほしい
そのお手伝いをいつもしています。

カウンセリングは
病気の人がするのではなく(もちろん病気の人もしますが)
日常の中で苦しくなった時に
自分の中で腑に落ちるためにやってくるものだと思う

「あーそういうことか」の次に出てくる言葉は
「今の自分でいいんだ」です

そしてその時まで出ていた症状はなくなっているものです

今日も「常に感じていた痺れた感覚、耳の奥の痛みがなくなっていた」と話していました

よかった

楽になるためにカウンセリングはあるのです

そこもっと知ってほしいな。

 

成長の過程
2015年09月25日
ネガティブな感情を持つ
それは誰にでもあること

しかしそれが時間的にも深さ的にも果てしないものになる時

私たちの心を脅かす

あなたにはそんな経験はありますか?

そこから変化したいと思った時
それはあなたの再生への道

生まれ変わったあなたになるための

道が始まります。

他責のネガティブさを持つ方は、こんな日記は読まないでしょう

これを読んでいるあなたはきっと
自身をつい責めてしまったり、相手に気を使いすぎる方

そこからの変化の道は繰り返し
螺旋のようなものです

変化は必ずしているのですが
「またか」と思うことを繰り返していきます。

例えばこう
家族にようやく自分の気持ちを「私はこうしてほしい」と言えた。

やったぁ〜。小さなガッツポーズ

しかしそれが職場になると
あーやっぱり言えない。私はダメだ。

そんな気持ちにとらわれる。

また例えばこう
大切な存在に「私、本当はこんな風に思ってる」

言えた!小さなガッツポーズ

でもシチュエーションが変わっただけで
あれ、やっぱり言えない  ダメだ、全然できていない。

本人は全く良くなっていなくて
ただ行きつ戻りつしているように感じるこの現象

でも本当は少しずつ上に登っていて、
また同じような場所に来ると同じような過ちをしてしまう。
まさに螺旋状態

でもそれは必ず、そこから抜け出せる

それは思いもしないところからやってくる

その人によって違う経験になるだろうけど
その経験を通して、「あれ?私全くネガティブでない」

そんなことに気づくことでしょう

ただ
一人でそんな経験をしていても
そのことに気付けないかもしれない

そんな時に気付いてくれる人の存在があるとスムーズに変化していけるよね

私は私というカウンセラーがそばにいてくれたからスムーズに変化していけた

そして今また
私は同じ経験をしている

幸せの道も同じなことに気づいた

だいぶ前から
幸せな自分がそこにいた

もう充分だと思っていた

でも変化しきれない自分もやっぱりそこにいたし、それでいいのだと思っていた

一生変わらないものもある
それは私自身のこと
それはあなた自身のこと

他人には触れることができない部分が人にはあります
(触れてはいけないといった方がいいのかも)

でも
私はそれを自分では満たせないことに気づいていた

でもあることをきっかけに満たされることも知りました

不思議です

ネガティブから抜け出そうと思った時も
「あーまたこの気持ちだ」

ということを繰り返してきました

でも幸せへの道も
もうずっと前に「あーもう充分だ」と思っていたのに

同じ言葉を心で繰り返すことが多いです

同じ事象ではなく、都度ちがう経験をし

その度に同じ言葉を心でつぶやいている

人ってもしかしたら
幸せになる時も不幸になる時も
たとえ気づいていなくても

どこかで繰り返し「あーまたこの感覚」とつぶやいているのかもしれません


マズローの欲求段階説
ご存知な方も多いですが一般的には5段階説

実はこのように7段階説だったことはご存知でしょうか。

欠乏欲求の場にいる時は
いつもいつでも下に下にと引っ張られてしまうのです。
自分で意識していなくても
自分が満たされたい思いに駆られてしまうのです

以前、高次の欲求に行くことを頭で、理論で、納得しようとしている方がいましたが
それはできないのです。
どこかで「じぶんを大切にして」と要求してしまうものです

それは当たり前
誰だって自分を愛しているのですから

そしてネガティブな自分を脱して
つまり欠乏欲求が充分に満たされると次に待っているのが成長しようとする欲求

成長欲求の中にいる人は
いつでもワクワクしています

そして同時にざんねんですが、自分だけではここまでいけないのです

物理学でいったら、量子波動ーフラート

明治大学の諸富先生の話によれば
人間を超えた何かと結びつく

私の言葉では
現実に起きていることが本当だと信じきらない
人が持つ「イメージの力」

これを信じて持つことが
人にとっては本当に大切なのだと知りました

そしてここからは主観だけど
こんな風にイメージの力を持てるのは女性だけ

元始、女性は太陽であった
平塚らいてうの言葉を思い出します

男性は女性には叶いません

少しヒーリング的話になりましたが
全て私が経験してきたことです

あなたの螺旋は
どんな風に空に昇っているのでしょうね

 

怒りは自分を守るもので自分を攻撃するもの
2015年09月19日
一昨日に「守るべきものと戦うには怒りも必要なのです」と

そして昨日は「自分の中の怒りの正体は「自分の中の傷つき」」と

結局
怒りは必要であり
怒りは傷つきで、変化は難しくまるで不必要であるかのように書きました

一体どういうことなのでしょうか?

「怒り」はとっても不思議な役割をします

私は、そもそもなぜ様々な仏像の中に怒りを表現するものがあるのかが不思議でした
仏像は拝むものです
心穏やかにするために助けになるものだと感じていました
だからとっても違和感を感じたのです

でもいつの時代にも
「越後屋〜おぬしも悪よのう」「いえいえ、お代官様ほどでは」
的な人物はいて
自分の利益しか見ないサイコパス的人間はいたはずなのです

そういう時に、されるがままになっていては
どんどん侵食されていきます

自分を守るという行為はとっても大切なことで必要だったわけですね
その時の原動力となるのが怒りのエネルギー
怒りは必要なのです

また怒りを
ふつふつと抱えている人は火山のマグマのような存在です
これは出されるしかないタチのものですが
時に
人間が出来ていて決して外に出さない人もいます
こういう方は
きっと自分自身を責めることにもなるでしょう

ものすごく人の良い「仏の◯さん」などと言われる人が
案外と病魔に倒れることはあり得そうな話です

怒りの扱い
難しく感じてしまいましたか?

怒りを自覚しているのに溜め込むと
怒りはさらに嫉妬や妬み、恨みとなって相手に向かいます
子育てなどで
朝から怒っては…と思いとどまったものの
昼になり夕方になる頃には
爆発!そして反省…
よくあることですね

怒りを感じられない、怒りが苦手な方は怒りを意識して
まずは形から入ることもオススメです
笑いはおかしいから笑うのではなく
笑っているうちにおかしくなってきて、いろいろ活性されるものです
同じように一度「ばかやろう〜」と叫んでみる
大きな違和感で、それでもできない方はカウンセリングを受けてみてもいいかもしれません

でもそうではなく、常に怒りを感じている人は
その怒りは自分をも責めることにつながることに気付けないと。

イライラしていることは
体に良い影響を与えるわけがないですものね

どうしても怒りをコントロールできないことを感じている、
そして変化を望んでいる方は
カウンセリングが必要です
(自分がそう自覚していない人にカウンセリングは意味を持ちませんが)

そこにあるのは「自己愛」の問題だからです
どうしてそこまで傷つきやすいのか
どうしてそこまでして自分を守らないといけないのか

それはもしかしたら
誰も自分を守ってくれる人がいなく
自分で自分を守るしかなかったのかもしれません


正当な怒りを感じられる健全な自分だったら
些細な怒りを些細なことで小さくプチ発散させるのが一番良いと思います

「ムカッ」「ナニ!」
私は小さくつぶやきながら
怒りを逃し、自分の小ささに笑っています
「あーこんなに些細なことに怒る自分はまだまだだな〜」っと

多分一生「まだまだだなぁ〜」と思い続けることでしょう
それでいいのです
完璧な人間などになれるわけがないのですから

 

怒りを抱えてしまう人
2015年09月17日
前回「ひっそりと心優しい人々」について書きました
今回は「怒りを抱えてしまう人」について書いてみようと思います

前回の書き出しはこうでした
「人に何かを言われて、頭にくる人がいる

それはある意味当たり前だと思う
怒りを相手に向けたり
体で、表情で、表現したり
時に制裁を加える人もいる
怒りを内に抑えてふつふつとしたものを抱える人もいる」

そんな怒りを外に出してしまう人というのは

一見尊大で
自分自身に大きな自信を持っているように感じます

怒りというのは自分の正当性を主張する意味も持ちますので。。。

では、本当にこの人たちは尊大なのでしょうか

実は怒りを身にまとっている人の多くは
とっても傷つきやすい人たちなのです

ちょっと意外かもしれません

でも事実はそうなのです

自己愛の傷つきが関係しています

私たちは誰でも濡れた傘を体に押し付けられたら
怒りを感じますよね。
それはもう反応といった位に感じることです

「自分の服が濡れて気持ち悪い」「傘の持ち主の気遣いのなさにあきれる」
ほら、自己愛が傷ついていることに気づきましたか?

自分の服は自分のもの、それは愛着の対象です。
それが濡れて自分自身も体に生地がまとわりつく感触を味わないといけない。
自分がおとしめられている感覚です

気遣いのなさに〜を感じるあなたは普段から他人へ迷惑をかけないように
色々と気遣っていることでしょう
なぜ気遣いを大切するのか、社会のルールという事もありますが
そのルールに従わないとどうなるのか
自分が脅かされる、不安になる
それはまさに自分の中の安心安全を守りたい事に通じるでしょう

わたしは気遣うのに、なぜあなたは同じようにしてくれないの?というこれも
自分が大切にされない怒り

怒りというのは衝動的に起こるもので、他人へ向かうものですが
そこにあるのは自分自身が傷つけられたという思い

その思いが強い人ほど怒りが強くなりがちです
たくさんたくさん
それはこちらが思いもよらないところで傷ついています(思いもよらないところでが大事)

当人は「傷つけられた」と感じているのです

こちらはなんの事かわからないのに怒りをぶつけられる
その当人がパワーある人ならまさしくパワハラ
そんな見方をすれば

傷つきやすい事が見えてくるのではないでしょうか。

そして怒りをもって相手を打ち負かすことは自分の傷つきを見ないで済む
最良かつ最高の手段です

自分の弱さなど感じなくて済む
むしろ自分の強さをアピールできるのですから

ここまでくるとこういう人を周囲が変えることができるかどうか
見えてくるのではないでしょうか

自分の弱さに向き合えない人は他人の指摘に耳を傾けることはありません

DVやモラハラをする人を変えようとすることの無意味さがここにはあります

もちろん本人が変わりたいと願えば変化への道は大きく門戸を開いてあなたを受け入れるでしょう

自分の中の怒りの正体は
「自分の中の傷つき」

あれ?怒りは必要なものだったのでは?

では次回はそのまとめを。。。

 

ひっそりと心優しい人々
2015年09月17日

人に何かを言われて、頭にくる人がいる

それはある意味当たり前だと思う
怒りを相手に向けたり
体で、表情で、表現したり
時に制裁を加える人もいる
怒りを内に抑えてふつふつとしたものを抱える人もいる

でも頭にくるより、かなしくなる人たちもいる
自分の悪いところはないか我が身を振り返り
こんな自分の有り様を残念感とともにかなしく思う
世の中で
ひっそりとそして健気に生きている人たちだ

かなしくなる人に
実は怒りがないわけではない
でも怒りより
我が身を振り返ることを自分に課してきた生き方を選んだ人だから
自分の中の怒りを認めることに抵抗を感じるのも事実

怒りはついつい自分ではなく相手に向かうものだから
そんなものが自身にあると認めることは
すなわち振り返っていないことを意味するから
とてもできない

しかし私たちの感情として元からある怒りは人が生きる以上意味がないわけではないもの
平たく言えば必要なものなわけです

そして怒りを感じない方は、往々にしてエネルギーが不足している

「どうして?」

それは見えていない強いエネルギーの「怒り」を押さえ込むことにエネルギーを使っているから

でも
怒りを感じることは自分を守ること
実はとても大切なこと

そして感じない方はないのではありません
隠されているのです

また心の優しさと怒りは対抗するわけではないのです

ひっそりと心優しい方は
怒りは優しさに敵対するとどこかで感じています

でも本来は違う
本当の優しさは、時に強さを必要とします
守るべきものと戦うには怒りも必要なのです

わたしはね、
あなたのかなしみも含む、心の優しさは
人間性の高さにつながるのだと私は思います

そしてそこにどうぞ強さも兼ね備えて欲しい

あなたにはその素質があるのだから
そう願わずにはいられない…

(次回は頭にくる人について)

 

この世は男と女だけー8月30日の講座の振り返り
2015年08月30日
本日、「男女のコミュニケーション」と銘打って
講座をさせていただきました。

男性と女性の違い、そしてなぜここまで違う、男と女という存在がこの世にいるのか?
私は女ですから、女の心理は理解できます。
でも改めて男性という存在を知るにつれ
この違いすぎる存在がなぜこの世にいるのか
本当に不思議に思います。

でもこの世の中の自然界に無駄がないことを思えば
必ずそこに意味はあるわけです。

今の私の思うところ、たどり着いたところで
本日の講座を開かせていただきました。

結局突き詰めれば
男女ではなく対人間のお話になっていきますが

いろいろな気づきを受講者の方々がお持ち帰りいただけたようで

私もホッとしています。

参加者の方々の感想の一部をここにご紹介したいと思います。

良かったこと
男性へのお願い、女性へのお願い
(それぞれの特性を踏まえて、どんな事にそれぞれの努力が必要なのか。)
ワーク
(それぞれの人の価値観の違いを改めて見直しました)
言葉のかけ方
(自分が下手にでていると、他人も同様に扱うというお話)

参加しての感想
発達(障がい)の問題ではなく、男女の仕組みの違いもあったという事が知る事ができた。
考え方の違いは、自分に非があるわけではないんだと思えてホッとした。

()は、松戸の補足です。

良かったこと
女性の思考パターンが、一目瞭然でわかったこと。
男女双方の視点が平等に扱われていた事。

感想
期待以上の収穫がありました。
自分の思考パターンの一端が新たに思えてためになった。
(この方は、自身の事を普段からしっかり振り返っていらっしゃいました。)

良かったこと
男性脳と、女性脳の違いを意識できた事が、今後の職場の運営に役立ちそうです。

感想
とても楽しく勉強させていただきました。
(女性の部下もいらっしゃるという事で、早速役立つと仰っていただきました。)

私が伝えたい以上に
皆様、しっかり受け取ってくださり、
感謝の思いでいっぱいです。

これからもより良き講座になるよう
努力していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

理不尽な人生
2015年08月19日
時に人生はなんと理不尽なのだろうと思う

可愛く生まれたかった
背がもう少し高ければ
生まれた子供に障がいがあった
子供が退学を余儀なくされた
自分自身、これからという時に病に侵された
伴侶に死に別れた

あんなに欲しかった
あれほど願ったことはなかったのに
それさえも手に入れることはできなかった

私たちの人生は
自分の思うようにいかないもの

そしてなんらかしらのそんな心の痛みを持って
人は生きている
生き続けている

人生に巻き起こる理不尽さに
戦いを挑むこともあるだろう
なすすべもなく受け入れるしかない時もあるだろう

人生って決して楽しいだけのものではなくできている
だからこそ楽しく生きようとするのかもしれない
見たいものだけ見ていようとするのかもしれない

でもその辛さに向き合えた時
その人は一歩成長するのだと信じています

苦しみ、かなしみ、辛さは夜明け前の暗闇と同じ
マイナスの感情は飲みくだされ、消化され
吸収される時には優しさになっている

そんなことを思うと
人生は理不尽ではあるけれど
同時に平等なのかもしれない

そして他人と比べ嘆いていた自分が
いかに豊かになっているか、いかに浅はかなのかは
自分では気付けない
そこでも他人が必要

自分の欲望に邁進していることと
自分の心の傷を痛みを持って慈しんでいることは
全く逆でありながら
物事の裏表でもあるのだと知ると

人生は少し違ったものに見えてくるような気がします。

次回の講座内容「男女のコミュニケーションを中心とした愛の講座
2015年08月10日
「この世は男と女だけ」

~男女のコミュニケーションを中心とした“愛”のお話~

☆全く違う生物とも言える男性と女性☆

男性と女性の違いを見つめていくと、つくづく違うなぁ~と感じます。

それなのに、異性がいないと受胎もできず、相手が必要ときてる…

それだけではなく、片思い、恋愛、結婚問わず、異性への関心は老若男女あることでしょう。

そんな存在への興味の根底には、“自分を理解してくれる存在を欲している”のだと思うのだけど、こんなに違うのに!と、私は改めて思ったりします。

不思議だと思いませんか?「きっと理解してくれる」だけを取り出したら、同性の方がずっと分かり合える気がします。

でもそうはならないのは、それが必要だから。

自分と全く違う存在があることが、私たちに何かしらのものをもたらせてくれている、そんなふうに思います。

また、そんな恋心なんてなくても、仕事上関わらなければいけない存在が異性ということもあります。

この“全く違う存在”と、関わり合うことを余儀なくされる。

お互いの『反応の仕方』や『脳の作り』が違うことでの摩擦や苦悩は「ありえない!」といった思いは、きっと誰しも経験されていることでしょう。

例えば

女性部下:ちょっと相談が…

男性上司:ん?なに?

女性部下:あのー、今の仕事に不満があるわけではないですし、業務上で誰かがイヤっていうことではないんですけど~

男性上司:で?

女性部下:あのー、、、えっとー、、、

男性上司:で、何!!?

こんなことも『男性脳』と『女性脳』の“違い”が引き起こしているのです。

“違い”は“違い”でしかなくて、決して“間違い”ではないのです。どっちがいいとか悪いとか、優劣、善悪ではないのです。

でもね、やっぱりこんなに違う存在なのに、この世の中には男と女しかいないのです。

せっかく全く違う存在がいるのですから、この存在を知らないまま人生を終わらせる、いや憎しみさえ抱いて否定するなんて勿体なさすぎます!!!

お互い惹かれ合ったり、反発し合ったり、職場でも、家庭でも、交際でも繰り広げられる人間模様…

そんな切っても切れない関係を改めて見直してみませんか。

ご参加お待ちしております。

●募集要項

どなたでもご参加いただけます。

例えば、こんな方に参加して欲しい!
・今のパートナーとうまくいき続けるポイントを知りたい方
・パートナーとの関係性を見つめ直したい方
・男の子を持つシングルマザー
・女の子を持つシングルファザー
・次の恋愛・結婚は絶対に失敗したくない方
・男性の職場で活躍されている女性
・女性の部下を伸ばしたい男性上司
・女上司に不満タラタラの男性
・異性とのコミュニケーションに不安のある方
・“愛”という言葉が好きな方、気になる方 e.t.c.…

●開催日時
2015/08/30(日)13:00~15:00

人数制限がありますので満員の折には
15:30〜17:30の会を設けます。

●参加費
3,500円(税込)
※当日現金にてお支払い下さい。

<会場>
株式会社Newty事務所内
『RentalSpace & WorkshopPlaza 町屋サロン みんなのわ』
https://www.facebook.com/machiya.minnanowa
http://newty.jp/corporation/access/
〒116-0001 東京都 荒川区町屋1-33-8
TEL & FAX 03-6883-3599
※東京メトロ千代田線、京成本線、都電荒川線、「町屋駅」より徒歩10分弱

<お申し込み>
下記お申し込みフォームからお願い致します。
http://u111u.info/my8G
※上記入力にて正式申込となります。

<お問い合わせ>
info@newty.jp

よろしくお願いいたします。

 

ポトス
2015年07月29日

もう何年も我が家にあるポトス

とても強いグリーンなので
枯れる事はないのですが

冬を越すとすっかりこのケースや、この土では
物足りない状況になり
生えてくる葉が
とても小さかったり、変色していたり

それで心痛みながらも
我が家ではこのケースがジャストサイズなので
このケースにあわせて植え替えをします

これが今年も植え替えたポトス

よく見ると
中心に近い所の葉は
植え替えのショックからか
葉の様子がおかしいですし、枯れている部分も

でもその先は?
美しい緑に覆われていますよね

よく見ると最初から、美しい葉が出ている部分もあります

私たちは、ついつい
この最初から美しい葉が生え揃う事に憧れます
素敵な人、悩みのなさそうな人、何か秀でたものを持っている人に憧れます
そして自分の身がそうでない事を嘆くことがあります

憧れに向かって努力していければそれは目標
植物や動物にはない、人間らしさ

でもその憧れが恨みや妬みに変わったら?

それはこの少し変色した葉のような状態をずっと続けるということ
これも残念ながら人間だからこそのこと
もしかしたら心が枯れてしまうかもしれません

それよりこのポトスのように
今ある自分をただ一生懸命に生きていくことこそが

先の美しい緑を保証するものだといえませんか
目標ではなく、妬みになりそうな時

そんな自分に気づけることも大切な自分磨きなのかもしれません

 

大好きだけど大嫌い
2015年05月08日
私の中によくある感情の一つに

「大好きだけど大嫌い」

というものがあります。

なんだか矛盾しているようだけど
実は誰の心にもあるのだと思います。
わかりやすいのは、親に対して、子に対して
かもしれません。

親はもちろん大切な存在だけど、どこか鬱陶しい。

子どもはかけがえのない存在だけど、ちっとも言う事を聞かないので、大嫌い

これらの気持ち、誰でも一度や二度は持った事でしょう。

食べちゃいたい位好き
なんて、言葉もありますが、これは大嫌いとはズレますね。

それでも好きと嫌いはやはりコインの裏表なので
可愛さ余って憎さ百倍
可愛い部下に裏切られた時には、
こんな感情を持つのかもしれません。

「好き」と「嫌い」

好きという感情は肯定的に受け止められる事が多いですが
嫌いという感情は
自分でも受け入れられなかったりします。

あの人が嫌い
自分が嫌い

でもね。
嫌いは自分のシャドウなので
どこかにある好きの裏返し

それに
嫌いがわかっているからこそ
好きがわかる。

そんな風に「嫌い」に接してみると
私の中ではどんどん嫌いが小さくなっていきます。

結果
「大好きだけど大嫌い」
になるのかもしれませんね。

帰るところが人には必要
2015年04月06日
帰るところがあるからこそ
打って出る事ができるのだと
ふと、思い至る。

強い事を言う人には
惹かれるが
それはそう見えて
実は帰る所がある事がほとんどです。

全てをなげうってるなら、それは博打。
そして、帰る所があることに
気づいていようが いなかろうが きっとその人の心の拠り所になっている。
その拠り所は、
人かもしれない。地域かもしれない。
何かと決める事はできないけれど
確かにあるもの。

強くなれないと、自分を卑下する方が時にいるが
それは方向性が間違っている。
前に出る事ばかり考えるより
帰る港を探すことが先決。
帰る所があれば人は強くなれる。

怒りは色々なものとくっつきたがる寂しがりや
2015年03月05日
この土日は、ゲシュタルトの学びでした。
ゲシュタルトというのは、
いつでもその人の「今」に自然とフォーカスされていくので
今の自分がよく見えてきます。

今の私は怒りや違和感と向き合うのだと
改めて感じています。

私の中にある怒り
「怒り」という感情は
とかく良くないものとされ
以前「怒りのセミナー」なども開催させていただきましたが
その中では
怒りの取り扱い方、向けられたときの対処など
学んでいきました。
巷でも
マネジメントしましょう。無くしましょう。
と、されています。

しかしリアルに向き合ってみると
意外と嫌なものではなかった。
不思議なほどに。
そこで、何故?

と、私なりに考えてみると
怒りという感情は
他の感情と結びつきやすい存在だと思ったわけです。

私の場合は、かなしみでした。
しかし
恨み、怨み、妬み、孤独感、自責感、空虚感
こういった感情とも結びつきやすい。
そしてこれらのエネルギーが大きいほど
怒りは恐怖的なものへと変化していくように思います。

私がみた、怒りそのものは
とても可愛いものでした。
やんちゃ坊主の駄々っ子のようでした。
可愛かった。
しかしそこにかなしみが紐付かれ自責感が紐付かれると
何ともいえないものに変化していました。

誰の中にもある「怒り」
毛嫌いせず
見つめてみませんか?
楽になれます。

 

子どもは遊びの名人
2015年02月21日
子供たちは遊びの名人
様々なものを遊びにしていきます。

私たち大人は
子供が集中して遊んでいると
これ幸いとばかりに家事をこなそうとします。
かつての私もそうでした。

子供の一日の中には
一人集中する時間と共に
大人や他の子供たちに関わる時間も同じようにあるなら大丈夫。

でももし、一人で遊ぶ時間ばかりでしたら
それは大人があえて関わる必要があります。
子供は遊びの名人ですから
一人で遊ぶことにどんどん長けてきます。
しかしそれは同時に
関わることが苦手になっていくということ。

ここに発達の凹凸のある子ですと
感覚過敏が加わるので
非常に周囲と関わる事に、困難さが増します。
あえていうなら、その子は皮をはがれて裸で放り出されたような気持ちかもしれません。

そしてなかなか頭で理解はできても
腑に落ちない大人は
自分の感覚で子供に接するので
子供にとったら非常に侵入的に感じて泣き叫ぶわけです。

そんな子供とどう関わっていくのか
つい私たちは、普通と違う子供に対してうんざりします。
接し方がわからないのですから当たり前なのです。
同時にそれで良いわけがありません。

親も幸せを感じてよいはずですし
子供は幸せになる権利があります。
こういった研究や実践は日々進歩していますから
私も日々学びですが
そんな家族の問題にも
寄り添っていきたいと願っている私がいます。

本日も子どもの事を考えるカウンセリングでした。

どの子も健やかに育ってほしいです。

 

朝に思う
2015年02月04日
私のクライエントさんは
優しい方が多い

優しすぎて、自分をとことん譲ってしまい
その後に
「誰も自分をわかってくれない」と嘆いたり
周囲にぶつけたりしてしまう

本当は、最初の時点で
そんなに譲らなくてもいいはずなのに

優しすぎて、自分を主張する事はいけないことだと
体が思ってしまっている

そうして
孤独を、かみしめている

譲りそうになるには
やっぱり理由があって
頭で理解しただけでは
簡単には、我慢を手放せない
「あー、そうかぁ」と腑に落ちないと。

自分を主張するばかりも
困ったちゃんになるけれど、主張しなければそれで満足なんだと周囲から軽く見られてしまう。

適度に主張し、適度に譲るには
練習が必要

また、譲れない自分、主張できない自分を受け入れる事も時には必要

生きるって一生勉強なんだと
思う朝

カウンセリングルームご紹介
2015年02月01日
カウンセリングルームのご紹介になります。

ご希望場所や日時によって
お選びいただく事が可能です。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

辛い朝に
2015年01月29日
うまくやろうと思っても
何故か空回り

自分のダメさ加減にイライラしつつ
そこには目をつぶり
周囲を責めたい自分に気づく

空を仰いでも
誰かが何かをしてくれるわけではなく
ため息だけがこだまする。

そんな時もあるよね。

そんなあなたに私は気づいています。
あなたの心の内に思いを馳せています。

辛いときもあるけれど
心がホッとする時もきっとある。

そんな日が来ることを信じて
今日もいってらっしゃい(^^)

 

自己肯定感
2015年01月26日
自己肯定感を持って幼少時を過ごしてきた事が

こんなにも自分の人生を揺るぎない物にしていくのかという事をある人の断片から感じます。

と、同時に

そういう方は
そう多くはいない事も感じます。

幼い子を持つ方には特にその事を知ってほしい。

また
自分が嫌いな人は
好きになる努力をしてほしい

揺るぎない人にはなりようはないけれど
努力した分だけ、返ってくる物はある

そして
その努力は何かをする事とは違うのかもしれない。

 

残念なお知らせ
2015年01月20日
こころオフィスでも取り扱っています
バッチフラワー各種製品が、2月より値上げとなります。

イギリスの製品という事で、どうしても経済の影響を受けてしまいます。

大変心苦しいのですが、皆様の
ご理解とご協力を、宜しくお願いいたします。

(なお、値上げ前と言うことで注文が集中してしまい、一時的な欠品でお待たせしてしまう事もありえますが、どうぞ宜しくお願いいたします)

(以下原文のまま)

販売店各位

バッチフラワー小売り価格変更のお知らせ<重要>

平素よりバッチフラワーの販売を頂き誠にありがとうございます。

さて、自民党の安倍政権の大胆な金融緩和政策の影響により、
日本の円に対して米国ドルはもちろん、
英国ポンドは昨年よりも約20%前後の上昇を続けています。

これによる仕入れ原価の上昇を受け、2015年2月から小売り価格を最大で9%ほど変更をいたします。
バッチフラワーは100%英国からの輸入品であり、為替の影響はどうしても避けられません。

また今回の安倍政権の再任により、この傾向はさらに継続される見通しとなりました。
販売店の皆様にはご理解とご協力のほど何卒よろしくお願いいたします。

実施期日は2015年2月2日(月)の受注分からといたします。

新価格は下記一覧のとおりです。

改定価格一覧<2015年2月2日改定>

・バッチフラワーレメディ(38 種類)10ml
2,200円 ⇒ 2,400円

・レスキューレメディ 10ml
2,200円 ⇒ 2,400円

・レスキュースプレー20ml
3,200円 ⇒ 3,200円

・レスキュースプレー7ml
1,800円 ⇒ 1,900円

・レスキューペット 10ml
2,200円 ⇒ 2,400円

・レスキューナイト 10ml
2,200円 ⇒ 2,400円

・レスキューナイトスプレー20ml
3,200円 ⇒ 3,200円

・レスキュークリーム 30g
2,200円 ⇒ 2,400円

・レスキュージェル 30g
2,200円 ⇒ 2,400円

・レスキューパステル(オレンジ/ブラックカラント)50g
1,550円⇒ 1,650円

・フラワーBOX セット(40 本入)
78,565円⇒  85,700円

※ 表示価格は全て税抜きです。

2014年12月
株式会社プルナマインターナショナル
代表取締役 矢吹三千男

お買い上げに悩まれていらっしゃる方はどうぞ今のお気持ちについてご相談ください。
お待ちしております。

 

国際遺伝子治療フォーラム
2015年01月13日

本業ではないけれど

子どもとの経験を通して
私自身が感じてきた事、考えてきた事、思い、願い

そんな事を話してきます。

それにしても
思ってもみなかった大舞台に一番驚いているのは私自身かもしれません。

 

瞑想
2014年12月18日
「瞑想」がもたらす効果は
計り知れないということがわかってきました。

瞑想には、三種類の方法がありますが
そのどれもが
様々な効果をもたらすようです。

私がよくお勧めするのはマインドフルネス。
自分の中から沸き起こる感情をただ眺めるという方法です。

脳科学で今明らかになりつつある効果は
瞑想によって、
何かにはまり込む、つまり依存を抑える効果から
痛みの軽減、炎症作用を抑え免疫力アップから
うつ状態の改善、
気分障害にも効果有り
そして対人職によくある燃え尽き症候群まで防ぐというのです。

一般の方にとっても
注意力増強、また高齢者の孤独感に対して、孤独の辛さ軽減
さらには寿命をのばす可能性まで示唆されました。

そういえば僧侶は長生きの方が多く、質素な生活が良いのかと思ったりもしましたが、瞑想の効果かもしれませんね。

まだまだ細かくは書ききれないほどですが
私もよくマインドフルネス瞑想実践しています。

他人に心を脅かされなくなりました。

どうぞ皆様もお試し、いえ日々実践してください。
とても穏やかになれますから。

 

大木を見て
2014年12月11日


こんもりととても形の良い街路樹

人間もこのようにのびのびと
大きく生きたいものです。

何故か悩みが深いほど
人は細部が気になり
全体をみる事ができなくなるように感じます。

自分のこういう所が嫌い

人のこういう姿が気に入らない

良い所、悪い所含めてそれが人間…

の、はずなのにそうはいきません。

割り切る事ができたらずっと楽だろうに
時にあえていばらの道を進んでいるようにさえ見える事があります。

かつての私も色々悩みましたから
細部が気になる気持ちもよくわかります。

しかしなぜ?と問われると私もよくわからない

悩む事で、自分の存在を確認していたのかもしれません。
悩みが深くて自分が大好きという方はあまりいなく

今の自分が好きではない、今のままではいけないと感じている方がほとんどですから
自己を否定しているわけですね。

それでも人間は自分を大切にしたい気持ちが心の奥深くにはありますから

自分を否定し、細部を見て更に悩みを深める事で、それを考える事で
自分は確かに生きていると確認しているようにも感じるのです。

人間はめんどくさいのではありません。

悩みを持つほどに自身でめんどくさくしているのです。
そうせざるおえないものがあるのです。

肩の荷物を降ろすお手伝い
これからもしていきたい。
この大木を見ながら感じた朝でした。

 

体は心に関わっている
2014年12月04日
子どもにとって親との関係は、
その子が初めて見るもの、聞くもの、感じるものを
どんな風に見るのか、どんな風に聞くのか、どんな風に感じるのか
その人の信念体系の青写真になります。
またその信念体系が姿勢、体のつくり、動き等に影響を与えていきます。

子どもにとって「もっと頑張る」ように叱咤激励される家庭に育ったとすると
その子の姿勢、仕草、動きはこれらの影響を受けて形作られるでしょう

更にあなたがあなた自身であるから愛されているのではなく、あなたがそれを達成しているから愛されているとしたら
おそらく筋肉は緊張感を持つ事でしょう。
私たちは愛されるために一生懸命生きている側面があるのですから。

自分が達成するもの全てが低く評価される環境に育つと
胸がくぼんで、腕に力が入らず、呼吸が浅いかもしれません。
その人の体は、子供時代の認められない、主張できない、自信がないといった「あきらめ」を反映したものになるでしょう。
(パット•オグデン著より)

そしてその姿勢や動きの傾向が
いままで培ってきた信念を更に強固なものにしていきます。

自分の姿勢、体の動きについて知る事は
変化の第一歩となります。

私自身、以前はとても早歩きでした。
男性も抜かしていく早さです。
何をそんなに生き急いでいるのか。

いまは違います。
多くの方に抜かされていきます。
抜かれる事が気にならない。
他の方とスピードが違っても気にならない。
どうであっても自分は自分と思える今があるからです。

変化する事は誰でもできるのです。
自分を知る事から初めていくのです。
でも自分の事こそ気づけないからこそ、伴走してくれる存在が必要なのです。

昨日ご相談の中でこんな話しがありました。
知り合いや友人にも話しはできる。
でもそこには頑張ってみなよという励ましがついてくる。

本当は何がいいのか、考える事ができないと。
こんな風に寄り添ってもらえてよかった。と。

いつもいつまでもそんな存在でありたいです。

マインドフルネス 催眠療法 ソマティック心理学 ①
2014年11月25日
久しぶりにこの3日間、心が揺さぶられていました。

私の前に現れた方を前に
共に居れるために

自分自身にも向き合い続けていきたい
そんな思いを新たにする日々でした。

瞑想しながら流れ落ちる涙は
哀しいわけではない
苦しいわけもない
喜びに満ちているわけでもない

自分でも言葉にうまくできませんが

「人って…」そんな思いでした。

しかし涙というのは「癒し」の効果があるのだと
つくづく。

ひとしきり流れ落ちる涙に任せていると
フッと楽になる時がやってきます。

あれこれ思わず
流れに身を任せてみる
するとフッと楽になるのだと知りました。
これはきっと涙だけではない

全てにおいてそうだと思える私がいます。
繰り返しますが

その時にあれこれ思わずというのが大切。

意外と難しいのですけどね。

マインドフルネス最高です。

 

「怒り」と「おどおど」と
2014年11月04日
表面的には全く違うようでも
奥深くでは通じ合っている2人。

どんな2人…

怒りをにじませ、いつも人に対して批判的な気持ちを持っている人と

おどおどとした態度を取りがちな人

全く違うようでも
この2人は惹かれあいます。

自分への自信のなさという面では
いつもそうではなくても
例えば妻の前では暴君になってしまう夫だったり
この人の前では上目遣いになってしまうそんな自分だったり

相手にぶつけるパターンとそれを受け入れてしまうパターンが
カギ穴にカギがはまるようにはまってしまう。

いつもおどおどしている人が自信がないのはわかりやすいですが
いつも批判的な人が自信がないだなんてちょっと意外かもしれません。

でも逆を考えれば一目瞭然。
本当に自信のある人、大きさを感じさせる方が
相手の行動、態度をいちいち批判するでしょうか?

そこにあるのは
自分の位置を上に持っていくために
相手を貶めているという事実

怒りは…
特に女性に対して表現される男性の怒りは

男性自身の弱さの現れと私は思います。

だからこそ、その弱さを自覚してほしい。

男性が弱さを自覚していれば
それを包み込む強さが女性にはあるのだから。

さて
同じような言葉を発していても
ちょっとした態度、視線、行動によって受ける印象が

こんなにも違う事に自身驚きを持って感じています。

それは相手の無意識が染み出るように表現されているのだと思わざるおえません。

つまり自分自身を理解している度合い。
それが無意識の中でにじみ出るのでしょう。

口だけで「弱さを自覚している」と言っても
それはにじみ出てしまう。

一方
おどおどしてしまう自分がどう自信をつけていくのか、
自分への信頼を獲得していくのか

どちらにしても
長年かけてできた今の自分
変化も緩やかなものでしょう。

でも変化したいと思えば
変化は可能なわけなのです。

それはあなたの心次第。
私は自分の変化を通してそう断言できるのです。

皮膚と触れ合い
2014年10月29日
子供を抱きしめていますか?

あなたは誰かと触れ合っていますか?

あなたは自分自身を抱きしめていますか?

誰かに触れてもらう心地よさは

子供が抱っこやおんぶをせがむのと一緒

異性を求める大きな理由の一つ

そしてそれが叶わないなら
自分で自分を抱きしめてあげよう

左の手で
頑張っている右手を撫でてあげてください。

ガチガチの肩に優しく触れてあげてください

何故か無意識で触れる事はあっても
意識的に自分に触れる事を躊躇する人は多い

誰のものでもない自分なのだから
自分で自分を愛おしんでほしい。

特に男性は女性より多く触れないといけない

オキシトシンの受容体自体が減ってしまうから。
歌を忘れたカナリアのようになってしまわないように。

私たちの心は脳と考えがちだけど
脳だけではないのです。

いくつかあるのですが
皮膚もその中の一つ

「感情は筋肉に宿る」

嬉しいとき、皮膚はつやつやとし、表情も明るくなるでしょう。

怒りに身を震わせているとき
身体は緊張し、かちかちにしているに違いありません。

哀しみにうちひしがれている時
身体は脱力し、肌も生気がなくなります。

そう、心は身体に表れるのです。

皮膚は人間最大の臓器というほどの大きさを持ち

胎児の時に作られていく過程では
脳や神経系と同じ外胚葉に由来した組織です。

脳や神経が緻密な作業をしているのと同じように
皮膚も実に多くの事を感じ取っています。

なのに私たちは
そこに気づかないように生きているだけ。

各臓器と皮膚が繋がっている事は
経絡やツボからも
理解しやすいのではないでしょうか。

皮膚は私と他人をわける境界の役目もしますし
人との繋がりを確認する役目もします。

私を形作っている この表面にある皮膚に

気づいてあげてください。

少しでてきたお腹も、
お疲れのふくらはぎも
頑張っている肩も

全てあなたを支えてくれています。
そして多くの情報をあなたに与えているのです。

脳や神経を愛おしむ事はできないけれど
皮膚はそれができる唯一の器官です。

充分に存分に愛おしむ事を怖れないでください。

 

台風が過ぎて
2014年10月14日
二週間続けての台風に
被害のあった地域もあり
自然の力はとても大きいものです。

そんな自然の力の前では、私たちは全くの無力。
インターネットも、自分が培ってきた知識も
意味ないものだと思えてきます。

無力と言えば
人生の中ではどうする事もできない時というのは必ずあって
どうして自分の人生にこんなことが起こってくるのだろうと
天を仰ぐしかないという事があります。

そんなとき、怒りも涙も意味をなさない事を知っている私たちは
諦めと共に笑ってしまうのかもしれません。

またそれさえも意味がなくなった時には
ただただ
立ち尽くします。

こんなことを言うと反感を買ってしまうかもしれませんが
怒りをあらわにできる、また涙で泣き尽くせるのは
まだ精神が正常なのかもしれません。

でもね、こうも思うわけです。

ただ立ち尽くすしかない
そんな経験さえも
マイナスだけではないものを自分に残すものです。
人を強くするし
潔くもなるものです。

そして物事への謙虚さも身に付けます。

何がいいわけではないけれど
台風が過ぎ去り、今朝の美しい空を見ると

必ず嵐は過ぎ去るものだと信じたい
そんな朝です。

 

めんどくささとおひとり様
2014年10月08日
新生活も、すでに4年を過ぎ
ここまでの生き方、生活の仕方を振り返るこの頃です。

生活する事に一生懸命だった1年目
勉強に明け暮れた2年目3年目
自分を見つめた4年目
そしてこれからの自分を考えるわけです。

男女のコミュニケーションについてとても興味を持っている私は
様々な人の姿を見ながら考えるのです。

依存や甘えは人間らしさを謳歌する為に必要なものだと思っています。

でも同時にやり取りの落としどころが難しいとも感じています。
つまりめんどくさいものでもあるわけです。

だからこそ
そんな面倒な所にとどまる事はやめて
「おひとり様」を選択する人も増えているわけです。

より自分らしさを追求していったら
相手に関わるより、自分を追求する方が
自分のこだわり
自分らしさを
極められるようにも思います。

でも
めんどくさくも自分を生かし相手も生かす
そういう選択もあるわけです。
人といる事で一人では得られない
驚きや喜び
それだけではない哀しみや苦しみも経験する事になる
そんな豊かなそして面倒さを極めようとされている方々も多いわけです。

さて私はどんな人生をこれから歩もうかと
改めて思うわけです。

 

怒りを手放すセミナー
2014年10月07日
『怒りを手放す心理学セミナー』
~怒りの感情を大切な人にぶつけない自分になる~
ご参加いただきありがとうございました。

怒りの持つエネルギーの大きさを伝えながら

怒りも必要な感情である事。
しかし扱い方を身につける事こそが重要な事

そんな事をふまえながら、
怒りの対処、怒りの浅さ、奥深さ等多岐にわたりお伝えして参りました。

癒しの視点から
身体からのアプローチも体験していただきました。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

尊重するって
2014年10月02日
男女の関係について
いつも不思議だなぁと思うのです。

なんでこんなにわかりあえないのに
共にいたいと思う人が多いのだろう?

プラトンの饗宴の中にでてくるように
人は片割れをいつも求めているのでしょうか?

その一方
経済力をつけた女性は結婚なんて面倒と仰る方も
増えているように思います。

さて
以前、女性は男性に従い、男性は女性性を敬う
というような投稿をしましたが

似て非なるものを感じるのです。

それは
女性性の包容力を持って
愛情として相手の望むようにしてあげる事と

自信のなさから相手の顔色を見るという事

時に女性自身も愛情と勘違いして言いなりになっていたり

顔色を見てしまう自分に嫌気がさして
おかしな所で自己主張してみたり。

きちんと自分を持っている女性はそんな事はないのでしょうが

そんな女性も多いと感じています。

私自身もある時の一言に対して
「これって迎合している」

そんな事を思ったりするのです。

今日は どんな一日になるのか?
だらだら過ごさないように
自分を律していきます。

皆様も良き日に♪

怒りを手放すセミナーでは
ワークを多く取り入れて実際に怒りについて
気づきに繋がるようにしていきます。

皆様よろしくお願いいたします。

http://etoilies.com/event.html

 

小学校
2014年10月02日
今朝は感慨深い朝です。
実は昨日で小学校を辞任してきました。
私は気づいたらいなかったといった風に
消えたいと常々思っていたのですが
皆様の温かいお志に
こうして華を持たせてもらえる嬉しさも満喫させてもらいました。
たいした事もしていないのに
もう忘れていたような出来事をカードに書き出して
御礼を言ってくださる方。
同じ時期にこちらの小学校に着任したからと気にかけてくださっていた方
子供たちからのメッセージも用意してくださったり
自主的にカードを作ってくれる子もいました。
関わってきた子は
シャイで、もう昨日は一日、目もあわせてくれませんでした。
極めつけは帰り際に泣いてくれる子もいて
そんな姿を見ながら
私はどれだけこの学校に貢献したのかな?
もっとできる事はあったはずという思いが少なからず自分の中にはあったので
やりきったという思いには繋がらなかったというのがが後悔と言えば後悔でしょうか。
しかし行政なので逆に立場的にできる事が限られるというのも
現実なんですけどね。
今朝はゆっくり
頂いた栗の渋皮煮を頂きながら
昨日の事を感じています。
色々な意味で
ここが区切りだなと思います。
仕事もプライベートも
次の段階にいくようになっているのだと思う。
さてそんな変化を更に促進する為に
本日これからばっさり?
カットにいってきます。
どんな風になったかはセミナーまでのお楽しみ(笑)
今回のセミナーはゆったりとした雰囲気でできそうなので
個人的なお話を伺ったり、したり
できたら良いなと思っています。
今からでも御参加お待ちしています。
変化中のみゆきに会いにいらしてください。
セミナーについてはこちら
http://etoilies.com/event.html

 

怒りの中には愛がある
2014年09月25日
怒りの奥にあるもの
哀しみの奥にあるもの
不安の奥にあるもの

全ては愛なのかもしれない

幼い頃
家族の中で満たされなかった思いは誰もが持っているもの
そう誰でも持っている。

怖がらず、不安がらず、

そこを見る事ができたら
しっかり見つめられたら

今のあなたがしてきた全てが繋がって
自分への信頼が増していきます。

愛の中に身を置く事の不安は
多くの人の中に見て取る事ができます。

多くの男性は不機嫌を表します。

多くの女性はヒステリーか哀しみ

愛をただ受け取る事って意外と難しい。

相思相愛と思っているそのすぐ後ろにそれが待っている。

信頼は自分を知り、自分を伝え、相手を受けとめる事。

不機嫌もヒステリーも怒りという感情を持って
表現されます。

奥深い怒りというものもあります。

すぐにしっかり自分を見つめられなくても
その入り口に立つ事は変化のスタート地点に立つ事。

怒りを手放すセミナー
お待ちしています。

詳細はこちら▼
http://etoilies.com/event.html

 

親子の中の怒り
2014年09月19日

子どもをつい怒ってしまう事
私もかつてはよくありました。

なぜこんな事も頑張れないの?どうして最初から諦めちゃうの?

やってもみないのに「どうせ」などという姿に腹が立って仕方ありませんでした。

でも叱っても叱っても子どもは心が離れていくばかり
叱ってやる気が出た事など一度もありません。叱られるからその「ふり」をするだけです。

それが見て取れるからまた腹が立つ。
そんな繰り返しでした。

今そんなかつての子どもたちはできる事をそれぞれの中で頑張ったり努力したりしています。
私がする事はいつも一つ。
話しを聴いてあげるだけ。背中を押してあげるだけ。

「学校辞めたい!」「どうしたの?」
たったこれだけです。

じっくり話しを聴いていると最初は投げやりに「もういい!」などと言っていた子どもも
次第に心を開いていくものです。
そして自分から答えを見つけてきます。

親なら誰でもそうですが、「こうしてほしい」願いがあります。
親のエゴですが、親だからこその願いなのです。

願いは自分の心に持っておくもの。
それを子どもに押し付けてはいけません。
それは大概「怒り」という形になって子どもを傷つけますから。

親であるあなたの中の願いはなんですか?
本当はどうして欲しいのでしょうか。

その気持ちに親であるあなたが気づく事が一番最初にすべき事。

その上で子どもと向き合い、受け止めそしてしっかり伝えていく。
その上でできる事、考えられる事を話し合っていく。

親子の中の怒りがコントロールが一番難しいものかもしれませんね。

怒りについて向き合ってみませんか?

http://etoilies.com/event.html

 

日々の悩みの解決には
2014年09月17日

夫:「今夜、帰ったら一緒に片付けしよう」
妻:「うん」
(でも夫も疲れて帰ってくるのだから早く帰宅する私がした方がいいわよね)
頑張って片付ける妻
夫:帰宅後部屋を見て「ありがとう」
そんな事が二度三度続き
妻:「疲れた〜」(なんか私「一人で」いつも頑張ってるわ)
「一人で」がキーワードになってイライラしている妻

夫がその日は飲んで帰宅

妻:「あなたは好き勝手できていいわよね。イライラ」
夫:「?」しかし売り言葉に買い言葉で喧嘩勃発

少し極端ですが
こんなやり取りはよくあるのではないでしょうか。

最初は思いやりから始まった頑張り。

一人空回りしてしまう妻
最近は妻に尽くす事に疲れた夫も多いですが
まだまだ日本では子育ての中心は妻である事が多く
気遣いを要求される事は女のことが多い気がします。

感情に揺さぶられがちな女性
感情はないのかと妻になじられる男性
カウンセリングは何も心の病気にかかっている人だけではなく
こんな些細なやり取りから
夫婦の中が上手くいかない
子どもとの関わりが難しい
ごく日常のあれこれに
さっと寄り添う存在でもあるのです。

家族の悩みって誰にでも話せるものではありません。
でも日々の事ですから悩みは結構深刻です。
そして何よりも一人では気づけないものなのです。
それはなぜ?
私たちは自分自身の思考の癖があるのです。
癖というものは他人と比べて気づくものです。
食事の仕方なら他人と食をともにする事で気づけるかもしれません。
喋り方の癖なら指摘されて気づけるかもしれません。
しかし思考の癖は気づきづらいですし
気づいても指摘しづらいものです。

だからこそ安心な中でのカウンセラーなのです。

日々の中でのやり取りを見ていく中で
あなた自身に気づいてみませんか?
小さな悩みが解決するだけで

驚くほど日常が楽になれるものです。

 

怒りを向けられたら
2014年09月12日
怒りを向けられて

平常心でいられる人はあまりいないです。

「なにしてるの!」
「どういうつもり!」
こんな言葉に

身体は縮こまり
心臓はドキドキ

しかし人と関わる上では
こんな場が決してないとはいえない

いやむしろ現代は増えているようにさえ感じます。

そんな時の
心持ちについても
考えていきます。

皆様御参加お待ちしています。

詳細はこちら▼
http://etoilies.com/event.html

 

怒りについてのセミナー
2014年09月11日
「怒り」について考えてみると
なかなか面白い感情だなと思います。

エネルギーがあるのに嫌われる事も多い。
それは他人からも自分自身からも。

嫌われものなのに、抑える事は相当に難しく
火山の爆発のような様相を呈してしまう事もある

かといってこれがないと他人の侵入を許してしまって
自分を守れなくもなってしまう

年齢と共にこの感情はまるで私たちの身体にたまるアブラのように
私たちの感情を支配し
頑固な存在を作っていく

頑固さはアイデンティティでもあるけれど
この怒りについてしっかり知っておかないと

制御不能となってしまう

10月5日(日)に怒りについて考えるセミナー開きます。

2時間半では私の講義で終わってしまうけど
いつかこんな話しをシェアしあえる時間を作りたいな。

だって理屈で人は変わらない。
自分の経験を話してそこにある意味に気づいて腑に落ちないとね。

でもまずはそんな感情のあれこれについて知っておく事が重要

皆様の御参加お待ちしております。

詳細はこちら▼
http://etoilies.com/event.html

 

共にいたい
2014年09月04日

共に暮らすって
とても面倒な事だと思う

それは犬にしても人にしても

それでもどうして
共にいたいと思うのだろう

共にいる方がこころが安らぐのだろう

一人きりの時間を過ごすと
全ての時間は自分の為に使う事ができ
全ては自分の好き勝手にする事ができる

その「楽さ」や「自由さ」は何物にも代え難いと思うのに

そう思っているのは私の思考で
私自身や私の気持ちはそう思っていない事を

ふとした体調や夢や自分がしている行動から感じるのです。

「共にいたい」

その中には、気持ちの安らぎや、私を認めてくれる
そんな信頼感と共に

一人とは違って自分が変化できる
成長できる
そんな喜びもあるような気がします。

それに
何故か一人でいると
自分に構わなくなっていくような気もする

今朝もうるうるした瞳で
じっと私を見つめる子を前に

キュンキュン気持ちを揺り動かされている私でした

 

生きる道
2014年09月03日
人前で話す姿を見て

それは私だからできるのだと仰る方がいます。

昔大家族の中にいて愚痴をこぼした時も

あなただからその家をまわせるのよ
そういわれた事があります。

本当にそうでしょうか?

起こってしまった事に対して
生きていく為に必要な出来事に対して

ただただ向き合ってきただけ

きっと私でなくてもそうした事でしょう

今の自分の状況に対して
誰もが自分にできる精一杯をしていますし
していくしかないのです。

ただその時に

ちょっというべきことを相手に言わなかったが為に
言い方を間違えた為に

段々道がズレていってしまう
これはあります。

自分が思うような方向に行けるように

気持ちの整理や考え方の癖を見つめたり
具体的方策を文殊の知恵で探したり

でもね。
本当はこう思う。

本当に生きたい道は自身の中にきっとある。

そんな自分の本心を見つけていくのが私のお仕事だと。

私自身が本当は家をでたかった

でもそれはダメだと自分で封印していた。
そんな考えはするべきでないと押さえ込んできた。
だから自分で気づけなかった。

でもね、隠しても封印しても
苦しい、辛い、涙は全てを語っている

もう一度いうけど
自分の中に
生きたい道はあるのです。

自分でそれをしまい込んでいるだけ。

そして気づいてほしいと道はあなたにいつもささやいているのです。

「早く気づいて」と。

早起き
2014年08月29日
人間「楽」をすると、以前のように戻るのはなかなか大変です。

今朝は仕事で5時起きですが
「早いなぁ」と思っています。

農業していた頃は夏は枝豆をとりにいくので
大概目覚めは4時台でした。

あの頃からしたら今は楽なのに
それでも「あ〜ぁ」などと思ってしまう自分がいるのです。

そんな自分を眺めながら
「頑張ってるね」とか「昔は大変だったね」とか「朝早いからいやなんだね」などと言ってあげてるわけです。

こんな風に自分で自分を認めてあげると
少し元気が出ます。

さぁ今日もよろしくお願い致します。

明日は食と心理のセミナー

みなさんの朝食はいかがですか?

一日の活力を作る食事ですから
ご自身の状況に合わせて召し上がってくださいね。

 

無邪気
2014年08月28日

何ともいえないモヤモヤした気持ち

大概はこんな事と棄てたり

モヤモヤを明らかにしても気持ちが落ち込むだけだとあえて見つめなかったり

そんな事ばかり。

すると段々自分の気持ちにも気づかなくなっていく

それは
喜びも、幸せも感じないという事

こんな人生何が楽しいのだろう。

無邪気な自分が好きです。

子どもな自分です。それでいい。

自分の気持ちに素直だから無邪気でいられる。

実は無邪気は最強!

邪気が無いし、邪気が近寄れないから。

もっと無邪気になろうよ。

それこそがありのまま、自分らしさ、個性だと思う
大人である事なんかただの大人しいつまらない人

思考ばっかり働かせて、頭ばかりグルグルさせて

モヤモヤしてばかりいないでね。

でも
モヤモヤさえも棄ててしまわないでね。

 

セミナー開催もうすぐです
2014年08月26日
「食と心理学セミナー」
〈食のコントロール術を学ぶと自己コントロールもできる〉

いよいよ今週末30日の土曜日となりました。

このセミナーを開くにあたって色々調べていくうちに

食べる事は生きる事なんだなと

身体を作る側面からも心を養う意味からも

そして生きる意欲を培う事からも

つくづく感じています。

みなさんは日々食に意識を持っていますか?

夕べも仕事帰りの深夜のコンビニには多くの方々が夕食を買い求めていました。

いくら本当は作った方がいいとわかっていても

そのスキルもなければ、時間もないといった所でしょう。

でもそこに問題意識を持っているのといないのとでは

休日の行動が変わります。

食を選ぶ目が変わってきます。

あなたの食事ではいけませんなどというつもりは全くありません。

でもあなたの中に食を気にする小さな芽、目、愛を持ってもらいたい。

今回のセミナーではそんな「め」を持ってもらえたらと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

http://etoilies.com/event.html

 

孤独
2014年08月22日
自分らしさと自分勝手

自分でいいとわがまま

ある側面から見たら「らしさ」でも

違う側面から見たら「勝手」なのかもしれない

でも
勝手はいけないからと
他人に気に入られる事ばかりを考えていると

私は苦しくなってしまう

自分らしく生きるとはある部分で
嫌われる事を受け入れる事だと思う。

それは孤独を愛することにも繋がるような気がします。

自身が不安だったとき
孤独はとても恐怖でした。

でも今は違う。

孤独を愛する力も身に付いています。

 

食と心理セミナー
2014年08月21日

http://etoilies.com/event.html

 

自分の変化
2014年08月13日

他人に自分の気持ちを伝えられないと

他人から何かいわれる事は大きな恐怖だったりする

人にこうしてほしいと要求できないと

自分の事を指摘されたとき
反発したくなる

そんな自分が悪いのではなく
それはそうしていないのだから当たり前の事なのです。

だから自分を責める事は無意味

自分の気持ちを伝える前は

「嫌われるのではないか?」とか単に「そんな事いえない」だったのが

ドキドキしながら伝えてみると、

思いのほか相手は素直に受けとめてくれたり
するものです。

もちろん頭ごなしな言い方は相手も受け取れませんが

言い方を考えて伝える事はとても大切

そして伝える事が自然になると

他人からの指摘を素直に受け取れる自分になっていたり
傷つかなくなっていたりして驚く事があります。

いつでもいつからでも人は変化できるし成長できるものです。


写真は仲良しな大根♪

 

大切な事
2014年08月07日

正しさ

大切なものなのだろう

しかし時には人を追いつめる

愛も与えられすぎれば

怒りになる。

自分の中におさめておく、自分で完結する

これは基本だと私は思う。

2014年08月06日
昨日のニュースで
自殺してしまった方がいましたが

テレビではありますが、その姿を見ていたので

小さなショックを受けています。

とても頭がきれる方と報道されていたし

技術の最先端をいかれる方でしたから。

「命を絶つ」

死にたい気持ちに襲われる時

理由は様々でも
どうにもならない気持ちなのだろう

そんな状況になってしまった時には
頭の良さなど関係ない

むしろ思考はなんの役にも立たないし

地に足をつけて生きる事の大切さを思ったりします。

「命」

それはその人のものであるけれど

その人だけのものではない

命はそんなに簡単なものではない

死にたいとこぼしていた自分がいうのも変ですが

やはり命の重さは相当に重くて

一つの命の終結は
周囲の魂を畏れおののかし

私たちの心を脅かす力があります。

まぁ普段命を意識する事などないとは思いますが

やはり生み育てる性を持つ私は
命には敏感になってしまいます。

そんな大きな事でなくていいのです。

日々の小さな幸せを大切にする事が
命を大切にする事に繋がる気がします。

 

グレートマザー
2014年08月05日
「グレートマザー」という言葉をご存知でしょうか。

ユングの考えに基づくネーミングですが

母性の強さから物事上手くいかない

そんな姿を見るにつけ

この言葉を思いだす私がいます。

私たちは皆、母である女性から生まれてきました。

母は良くも悪くも偉大な存在です。

そして父親以上に大きく影響を受けています。

逆にいったら、父からも母からもDV受けたとしますと

多くの子どもはより母を憎むものです。

子どもからしたらより愛されたい対象で
大きな存在ですから。

しかし
母親からしたらなぜ私ばかりとなるのかもしれません。

さて
この関係は通常の親子ばかりに限らず

母がいない事で、娘が父に対して
母の存在となることもありますし

男性が母との関係に問題をはらんでいますと特に
独身の女性が相手の男性に対して母の役割を選ぶ事もあります。

母のいない父子の関係ですと、父が母の役割をとる事もあるのです。

母という存在は守り育む側面と共に
相手を飲み込む存在でもあります。

そう考えると
「守る」という言葉は常に「手放す」事を心に秘めておく必要があるのだと思うのです。

母性はとても大切ですが

自分を苦しめ、相手を苦しめる事もある。

そんな事を知っておく事も必要ではないでしょうか。

 

電話カウンセリング:キャンペーン
2014年08月01日
所属しているボイスマルシェからお得なキャンペーンが始まりました。

私の電話カウンセリングを受けてみませんか?

3000円分無料です。

http://mag.voicemarche.jp/whatsnew/201408pre.html

どうぞよろしくお願いいたします。

「そのままでいい」とは
2014年08月01日
「そのままでいい」「ありのままでいい」「あなたはあなた」

こんな言葉を良く聞きますし

自分で自分を苦しめるような事はもうやめてほしいと願い
私もお勧めしています。

しかし頑張っている方こそ
この言葉によって
頑張るという杖を外されるのではないかと

非常に不安に思うようです。

それは例えるなら
まだ見ぬ恐竜を恐れているようなもの

子どもの時の自分は確かに丸腰でした。

周囲の言葉に何一つとしてやり返す術はなかった。
せいぜい小石をひとつ投げるくらい

でも今の自分は違います。

様々な経験を通して色々な武器も手に入れました。

立ち向かう事も時には勇気ある撤退をする事だってできます。

蓋を開けたら大きな恐竜と思ったものは
可愛い子犬ということもあります。

そして何よりもここが重要ですが
「そのままでいい」というのは

もう金輪際何もしないという事ではありません。

例えば私
ありのままでありたいと願っていますし

自分の思う事に嘘をつきたくないと生きています。

しかし、思いもよらない友人の言葉や態度に挙動不審にもなりますし

それを過不足なく相手に伝えるより、
自分で納めたり
自分が行動してしまう事もあります。

そんな意味では、いまだ達成できていませんし
未熟者です。

でも頑張っています。

そして同時に自分の気持ちを知っていてあげる事は自分にとって非常に大切な事なのです。

しかしその事が理解できない方が多いし
その為にカウンセリングはあるのだと思っています。

そこにエネルギーを使う事は生きていく価値を変えると
私は自分の経験から思いますし
それを仕事にする事を選んだわけです。

逆説的ですが、丸腰の自分では
「まだ未熟」だとは逆にいえません。

虚栄、虚勢をはってしまうのが常です。

「そのままでいい」というのは
ある意味ではこの虚栄をはる事をやめませんか?というお誘いなのかもしれません。
いえ、虚栄をはっている事を自覚的にするならそれも充分ありなのです。

でも自分をごまかす為についしてしまうと
その後に襲われる感情はとても苦々しいものです。

自分はダメを確認するような類いのものです。

そう…
そんなものに頼らなくても
あなたは沢山の知恵をもう手に入れています。

人生を生きてきたという事はそういう事です。

そしてまた
常に人には新しい課題が出てきます。

そこに向き合わなくていい「そのまま」ではない。

これから先はあなたの人生。

悩んだ時はご相談お待ちしています。

 

言葉と自由さ
2014年07月31日
言葉は、人間が持つ素晴らしい道具

メラビアンの法則では、言葉そのものより音調、語調、態度や雰囲気で
人は他人を判断すると言われています。

それはその通りなのですが

人間の口から発せられる時点で
言葉は様々な衣装を身にまとっているわけです。

そしてその言葉は相手へのギフトとなるだけでなく

自分自身にも大きな影響を与えていくわけですね。

だからこそネガティブな言葉は言わない方がいい

ポジティブに生きていかなきゃ。

などと言われるのです。

この事については、異論がある私ですが

今日はその話しではなく

言葉を発する事で自身が影響を受けて変化していく

変化の素晴らしさをお伝えしたい。

人それぞれ自分を解放する言葉というものがあるのだと思います。

私自身もこんな言葉を発する事へのためらいを感じる言葉もありました。

今もあります。

でもそのためらいを外していく事は非常に自分自身、自由になっていく感覚があります。

そしてこの言葉は相手に投げつけるのではなく、自分の為に使われる性質のものです。

頭にきた時には「大嫌い!」と叫ぶ事も必要なのです。

愛を感じたら「愛してる」とささやく事も大切なのです。

心で思うだけでなく言葉にすると大きな自分のエネルギーとなります。

心理療法の一つ「論理療法」では

一日のうちで一番気分がいい時間に

拳を振り上げ50回、その人の中にある悩みの種

つまりは嫌われたくない感情などに対する言葉を言う事を推奨します。

そうして自分の中の強さを育てていくのです。

少し話しがそれました。

自分の中のエネルギーがないと感じている方は
きっと自身で何かを抑えているものです。

それでいいと納得されていれば私がとやかく言う事ではないのですが

羽を伸ばす自由さを手に入れてみると

とてももったいない気がしてしまうのです。
それくらい気持ちの楽さが違いますから。

どうぞあなたがあなたらしく生きていけますように。

 

「遊び」は大切
2014年07月30日

発達障がいを持つ子どもたちは

言葉を字義通りに受け取ったり

ジョークが通じなかったり

つまり真面目な子が比較的多いわけですが

真面目という事は

逆に言えば「遊ぶ」事が下手なわけです。

就労と余暇は切ってもきれない関係。

余暇を教えておかないと
休日の過ごし方に困ってしまい

良くない人のカモにもなりかねません。

家族と時間を過ごす事が多い夏休み

子どもに遊びの計画をさせてみるというのも
良い経験になるのかもしれませんね。

 

食と脳内ホルモン
2014年07月25日
当たり前の事ですが

私たちは食べたものでできているのだとつくづく思うのです。

食べたものがエネルギーになるというのはもちろんのこと

身体がスムーズに動く為にも食べ物は大きく関わっていますし

脳内ホルモンも食べるものや食べ方が大きく関わってくるのだと
知るとますますなおざりにはできません。

「食」はとても奥深いものですね。

そんな生物としてのお話も織り交ぜていきます。

http://etoilies.com/event.html

御参加お待ちしています。

汗でデトックス
2014年07月24日
先日時間があったおりに
色々常備菜を準備しておこうと
台所に立っていたら
半端ない汗に懐かしい心持ちになりました。
「滴り落ちる汗に懐かしい?」
と思われるかもしれませんが
以前の私は
朝起きたら朝食の準備
一仕事したら昼食の準備
畑仕事の後は夕食の準備と
一日の長い時間を台所で過ごしていました。
最近はそんな時間も珍しくなり
先日の懐かしさに繋がったわけですが
過去の自分を苦々しくではなく
懐かしく思えるようになった事自体
自分の変化を感じるわけです。
輝かしい過去はないけれど
確かに毎日一生懸命生きていた
誰も認めてくれなくても自分の人生として
今までもこれからも
自分に嘘なく生きていきたいと思うのです。
さて8月30日に「食べる」ということを考えてみたいと思います。
週末は菓子パンを買い込んで食べ過ぎてしまう方
お酒を飲みだすととことん飲まないとやめられない方
がっつりなどと言いながら食べることをやめられない方
食は心と深い関わりがあります。
ご一緒に見つめてみませんか?
http://etoilies.com/event.html
ママは太陽
2014年07月18日
家族の中でお母さんは太陽です
お母さんが笑っているだけで、家族は皆安心します
ついお母さんは、子どもや夫を優先しがちですが
家族の為にもあなた自身が幸せな気持ちを持てていないと
家族皆が幸せでいられないのです
こっそりでも堂々でも
幸せになれることをしてみましょう
そしてそれをした日には夫の前でも笑顔になってみましょう
家の中が明るいと夫も嬉しいものです
こだわり
2014年07月15日
「人としてそれができないなんてどうかと思うよ」
「それって社会人として当然でしょ」
それを言葉にしている人にとっては、当然な事。
例えば食事の仕方など、もうすっかり長年身についてるものだから
相手の姿をとても受け入れられないということは
充分考えられる事
豪快な食べ方をする人を見て
Aさんはは「美味しそうに食べるね」
といい
Bさんは「なんてお行儀が悪い食べ方なんだろう」と思う
Aさんは食べる時に大切なのはその場の雰囲気で
Bさんが大切にすることは食べることのマナーなわけです。
そんな風にみていくと
手の洗い方や、パジャマを毎日洗うかとか
案外そんな些細な事に
小さな違和感をためている方も多いものです。
「こうあるべき」が沢山あればあるほど
相手との間に違和感を感じる機会は増えて
相手に原因を求めつつ
結局孤独になってしまったり
相手を責めるきっかけになったりするようです。
そんなこだわる姿を見ながら
こだわるということは、その人が気にしているということ
つまり自身でもその「こだわり」にとらわれているということ
「とらわれ」とみると
その方自身がこだわってきたというより
誰かに(主に親)こだわることを強制されてきたように思えてきます。
自分だけのこだわりなら
相手に強制しなくてもいいわけですから。
自分も強制されてきたからこそ
相手にも同じことを要求したくなるのです。
しかし話しがややこしいのは
それもマナーだったり社会の慣習だったりと
「社会人として当然」という思い
そこは自分らしさやプライド、こだわりととるのか
もっと自由になるのか
どちらにせよ
あなたらしさを謳歌してほしいものです。
1人より2人
2014年07月14日
1人で生きる方も多いけれど…
個人的な時間を1人で過ごすことに一抹の寂しさを感じる方も多いもの。
人はわがままな生き物ですから
誰もが自分の思う通りに生きたいもの
そして同時に自分を受け入れてもらい
自分のこだわりを共有してくれて
二人でいる喜びだけを得たいと思うもの
そんなの無理ですから。
面倒だとわかっていても、誰かと一緒に居たいと願う
「厄介だな〜」と恋愛相談を伺いながら思う私です。
さてこんなとき、どうしていったらいいのか
こんなときも役立つのは自身の感情
あなたが本当に望んでいるものはなんでしょうね。
休息も仕事のうち
2014年07月10日
「誰も悪い人はいない」
でもあなただって何も悪くないでしょ
今まで積み上げたものがあるから
皆の期待がかかっているから
自分が頑張るしかないから
自分が全ての責任を持たなければと思うと
それは大変な重荷になってしまう
責任を丸ごと請け負うのではなく
分散することはマネージメント
あなたは期待されているのだから
上手な休息はあなたの力になるのです
上手に休んでいますか?
書籍のご紹介
2014年07月09日
この本は10代の方向けに書かれたものですが
だからこそ大人にもとてもわかりやすい内容です。
娘の為に購入しましたが
私がはまっています(笑)
七夕
2014年07月07日
本日は残念なお天気ですが
七夕様ですね
織姫と彦星のお話はみなさんもご存知の通りですが
よくよくお話を紐解いてみると
好きで好きで仕事をしなくなった二人を引き離す
仕事をするように一年に一度しか会えなくする
こんなお話なんですね
こういう風に書いてみると
なんだか全く切ないお話ではなく
周囲の妬みではないかとさえ思えてくるのは私だけでしょうか。
人が人を好きになる
とても素敵な感情です
子孫を残すという本能が動物にはあるわけですが
興味を引かれるには
鳥のウズラを使った実験があります
あまり自分に近いウズラや
全く血筋が違うウズラには
興味を持たず、
ウズラが一番興味を持ったのは
親戚程度のウズラだったそうです
似ている所もあって、全く違う所もある
共感と意外性は恋愛には必要なのかもしれませんね
ウズラならそれだけで良いのかもしれませんが
人間はそうはいきません。
そこが複雑な所
好きになった相手を大切にしたいと思うはずなのに
身近になるほどに
自分の感情のはけ口になってしまう
喜びも哀しみも怒りさえもリアルに表現されて
それでも全てを受けとめられるような人間はそうそういませんから
売り言葉に買い言葉になって喧嘩などということもよくあることです。
しかもその時に投げられた球をきちんと返せないとき
人は心に怒りを貯めていくのです。
「もう昔のことなのに」なんて
球を投げた方はすっかり忘れても
投げられた方は忘れることはありません
そういうものなのです。
だからこそ
おつき合いをする時には
珠の投げ方を考えないといけないし
投げてしまった時には謝らないといけないし
投げられた方もそのままにせず
そのことが意味することをきちんと尋ねないといけないわけです。
人と人が好きになることは簡単ですが
付き合いを長く続けていくには努力が必要なのです。
更にその際に
自分の価値観という物を相手にも望もうとします。
なぜでしょう。
好きだからこそ、もっと共感しあいたいからこそ
自分の当たり前を相手にも共有してほしいのでしょうね。
これがとってもくせ者
本当は自分が落ち着きたいからなのだけど
自分の意識は「相手のため」だと固く信じていますから
相手がその価値観を受け入れられない時に
気持ちは離れていくのかもしれません。
もう仕事をしないくらいぴったりの人に出会えるなんて
ある意味究極の幸せだな〜なんて
私は思うのですが
それは引き離される運命にあるのでしょうか。
昔話はどこか教訓めいていますから
戒めの意味もあるのかもしれませんね
変化
2014年07月04日
仕事にしても
恋人にしても
結婚にしても
憎しみや不安、恐れを持ったまま
新しい出会いを求めても
そこで上手くいく事は難しい
その事に気づいてもいないなら気づくまでさらに経験しないといけないかもしれない
気づいているなら自身のもつれに向き合わなければ変わらない
自身に向き合う事は対象への感謝に気づく事
頭でわかってもまだ機は熟していない
「あーそうか〜」
こんな気づきはあなたのすぐ側にあるのかもしれない
人は前向きであるべき
2014年07月02日
マイナスなことを言っているとそちらに引っ張られてしまう。
マイナスな事ばかりでは気持ちも落ち込む。
だいたいマイナスな事ばかりいう奴はやる気がないんだ。
そんな話し聞きたくない。
確かにそういう事はあるようです。
でも同時にいつもプラスの言葉ばかりを唱えている方や
いつでも明るく元気で前向きな方は
私からみたら違和感を感じます。
人間はマイナスもプラスも持っている生き物で
それが普通なのです。
コーチング流行りで
みな更に上を目指していきますが
そんなとき、あなたの中の哀しみや苦しみに蓋をすることになります。
「いえ!私はマイナスの感情なんてない」
時にそういう方がいらっしゃいます。
あなたの身体に何か異変がおきていませんか?
あなたの家族に何か異変が起きていませんか?
無理したとき、無理した事にも気づかない時、
その歪みはどこかに現れてきます。
カウンセリングというと
「自分は病気ではない」
「精神的に弱いなんてみられたくない」
いえいえ
カウンセリングは、日々のメンテナンスですから。
強さを自慢している方こそ
健康に自信がある方こそ
時にマイナスの感情を自分の身体の内から外に出す事は必要なのです。
人間は不思議です。
こんな感情は話してもどうしようもない
充分自分でわかっている
それでも安心な場所で他人に話し
自分の中から手放す事でしか
自分の心を平らにする事は出来ないのです。
仕事ができる人、家族を大切にしたい人こそ
カウンセリングの効力はあるのです
怒り
2014年07月01日
怒りのコントロールについて様々なセミナーが最近行われていますが
そもそも怒りが起きる
心のありようについて考えています。
もちろん怒りが起きる仕組みは一つの理由ではありませんし
時には必要な怒りもあるわけです。
私も含めて日本女性が怒りを表現しづらい現状や
怒りの矛先が自分に向かう時
そこでは何が起きているのか
なぜその人はそんなに怒りを感じているのか
怒りのコントロールばかりでなく
怒りの奥深さを考えています。
そもそもコントロールも必要でしょうが
それをすればいいのかさえ疑問に感じている私がいます。
春に京都に行った際に漠然と感じていたのですが
なぜ如来像などの姿だけではなく
怒りを強く表現した仏像があるのかと思っていました。
もちろん怒りは私たちの心の表現ではあるのですが
仏像の怒りは私たちの代弁者なのか
いやただそれだけではない気がします。
「怒り」
あなたの心の怒りは
どのようにあなたに影響を及ぼしていますか?
感じる力
2014年06月27日
我が家の愛娘(わんこ)はよく私の腕枕で眠っているのですが
動物的勘とでもいいますか
これはすごいなといつも思う事があります。
朝起きるとき
目覚めるまでのほんの数分
ワンコをなでながらうつらうつらしていますが
心の中で「さぁ起きよう」と思って身体が動くその前に
ワンコはさっと動き始めるのです。
その差はわずか0、5秒くらいでしょうか。
実際は微妙な筋肉の緊張やまぶたの動きを感じているのかもしれませんが
それを感じれる事も含めてすごいと思うのです。
つまりね。
私の思いや本当に微妙な動き
そんな実際の行動に移す前の私を犬も感じているという事
すごくないですか?
これって犬だけ?
多分子どもたちも同じだと思うのです。
子どもは大人よりずっと感じる力は強いですから。
人の本来ある姿に近いですから。
こんな風に書くと何かスピリチュアルなイメージを持つかもしれませんが
そんな力は大人のあなたの中にもあるのです。
全ての人は皆子どもだったわけですから。
しかし
自分の中にある力を信じる事は意外と難しく
私も自分で作った自分の殻を外す事に苦慮しています。
それでも昨日若い方にお伝えした言葉を自分にも言い聞かせています。
「今すぐに目指す姿にならなくても、こうなりたい思いを胸に努力していく事で
必ず気づけば理想の姿に近づいています。」
一生もんですね。
ホッ♪
2014年06月26日
美味しいお茶と共に一息つきましょうか。
そんなぎりぎりの所で頑張り続けなくても
ちゃんと一日は始まり一日は終わりますから。
肩の力を抜いてみて♪
覚悟
2014年06月25日
昨日は、九州からいらした方とお会いしました。
お子さんの骨髄移植について悩まれているとのことで
私の経験が何かお役にたてるならと
お会いして、お話伺ってきました。
生まれつき病気を抱えながら生活されている方は
通常の生活の中では
あまりお会いする機会はないように感じますが
でもどの病院でも小児科には沢山の子供たちがいて
その中でも持てる力で
子供たちは精一杯生きています。
親は親で病気を抱える者同士
慰めあったり、密かに比べてみたり
そんな中でも不思議な連帯感がうまれたり
日々を人らしく生きているわけです。
以前映画の後の対談の中で
難病で長生き出来ない事がわかっていても
生きている今をこれだけ楽しんでる親をみて
同病のその親の子供が
生まれて良かったと心から思えている
自分も長生きできない事がわかっているのに。
そんなお話を伺いました。
ちょっとその時はショックだったのですが
そんな事もあるんだと
深く感じ入った事を、昨日もまた思い出したわけです。
昨日お会いした方は
「いつも今を精一杯生きてきた」
笑顔でおっしゃいます。
ある意味覚悟を決めて生活してきたわけです。
私も、だいぶそんな生活から遠のき
すっかり日々に埋もれていますが
その頃の経験は
私に強さと複雑な人の心を学ばせてくれました。
先ほどの対談のように親自身も病気というのとは違い
親が元気だと
子供への負い目がでたり
不安が頭をもたげたり
元気な自分の人生と比べたり他人と比べたり
もう、それはそれはあちこちに気持ちがいって
大変極まりないものです。
それが親というものなのでしょう。
簡単に覚悟なんて決められない。
情けないですが
責任を感じるほどに可能性にかけたくもなったりして。
でもこれって病気を持っているかなんて関係なくて
子育て中の方なら
誰でも感じる事があるのではないでしょうか。
そんな愛なんだか、エゴなんだかの
あちこちの気持ちが
子供を見る目を曇らせてしまい
大人になった子供に恨まれたりしてしまう。
先日は、(いや、先日も)子供を見殺しにした親の事件の詳細が新聞に載っていて
怒りとかなしみと苦しさを感じましたが
そんな親はまだまだ少数であると信じたい。
私、思うのですが
子供に恨まれる親は、確かに愛情があるのだと。
ネグレクトや、虐待を受けた子供(大人)からは
あまり恨みの言葉は聞かれません。
すでに親のことは諦めているようにさえ感じます。
愛情の方向性は間違ってしまったかもしれませんが
愛情まで否定する事はないのではないでしょうか?
覚悟を決めた方とお会いして
覚悟を決めかねている善良な親という存在を思う朝です。
甘える事は案外難しいのかもしれない
2014年06月24日
自己完結的に自分にご褒美したり
他人には寛大になれるし、赦す事を勧めても
自分から他人に要求し、甘える事は意外と大変なものかもしれない。
「甘える」
それはワガママと近く感じる、私たちの感覚があります。
自分側からみたら
律する自分ではありませんか?
それだけならまだしも
事はそれほど簡単でもなく
他人側からみたら
私がそれを言われたらかすかに面倒に思うかもしれない。
言われても自分の状況を、優先するかもしれない。
(それを本当に、思ったり、優先するかは問題ではなく)
だから、甘える事はやめておこう。頑張っておこう。
そうして、自分で頑張ることを課している方はかなり多い。
甘えとワガママのスタートは似てるけど
行き着く所は違うと私は思う。
そして私は知っている。
そうして、他人に(家族であっても)迷惑をかける事が…
そしてそれを全く困った顔をされずに全て受け入れてもらってこそ
次に相手が困っている姿を見たときに、
損得関係なく相手の為に
動くことが出来るのだと。
ただここには条件があって、
お互いが大人として充分に心が成長していないといけない。
そここそが甘えとワガママのゴールの違いになるのだと思う。
その上で
迷惑を迷惑としない存在に出会えたら
それは人生にとってなにものにも代え難い出会いといえるのかもしれない。
相手がワガママだと思ったら
相手はもちろん自分も心の成長がまだ発展途上なのだと思う。
相手との適正な距離をとれていないのは、他でもないあなた自身なのだから。
身体と心は相矛盾する
2014年06月23日
やりたいこと
それは頑張りだったり、その場に参加したい思いだったり
だけど
それを身体が望んでるとは限らない
肩の痛み、腰の痛み、不定愁訴だったり、病気になったり
それでも仕事だからと頑張ってしまう
必要とされているから頑張ってしまう
責任感から頑張ってしまう
無理するなという方が無理なのかもしれない。
自由に生きる事は現代ではかなり困難です。
2014年06月19日
もう一年以上
気づくと
丁寧に糸をほどいていたのだけど
ほどくはじから新たな絡まりができていって
これはもう諦める事にしました。
すると
ものの5分ですっきり。
あの苦労はなんだったのだろう?
かなりの荒療治ではあるけれど
こういう事ってあると思う。
諦める時期の見極めが大切なのかもしれない。
いや諦めるではなく、
これから
糸に使う時間をもっと生産的な時間とするために。
これは糸の話し?
ファミリーコンステレーション
2014年06月17日
「家族」ってなんなのだろうと
この土日のワークを通して
また
私の中にある散在していたものが結びつきたくて
ムズムズした気持ちと共に、とても考えさせられました。
オランダからいらしたベルツ夫妻は私にまた素晴らしい気づきを与えてくれました。
【ファミリーコンステレーション】
ー 今悩みや問題が起きている人 その方のみをみるのではなく
その方が所属する(親との)家族の過去に起きた事が
その人の問題となっていると見立てて過去を巡るワーク ー
私たちは、必ず誰かのお腹から生まれている
そこには母親がいて
父親がいるわけです。
さらにその母や父にも両親がいてと
命が脈々と受け継がれているわけです。
命だけでなく、実はその家族特有のシステムも、受け継がれているのです。
例えばどこかの場や国にいったとき
その場や国と自分が「ちがうな〜」と感じる事があると思います。
そんなとき私たちはチャンネルをさっさとあわせて
何事もないように過ごしたりするわけです。
ディズニーランドでは、ランドにあった振る舞いを自然とするわけですね。
高級レストランではちょっと背筋も伸びるわけです。
同じようにある家族の中にいる時
ごく幼い赤ん坊であっても場に合わせようとするのです。
その家族にある信念、思い込み、価値観、そういった場の雰囲気を
ごく幼い赤ん坊であった私たちは
自分の中に受けいれてチャンネルをあわせて生きているのです。
また
どんな家族であっても、必ずその家族特有の盲点
「見えていない所」「みる事が赦されない所」があるものです。
みなさんが幼い頃
何となく親の雰囲気を察して「これは親に聞いてはいけないんだな」
と思った経験はありませんか?
それがまさにそのものです。
そして家族の中にある
(それは母の中にあるのかもしれないし父の中にあるのかもしれません。
親自身も無意識の中に押し込めていつのかもしれません。)
そのみる事が赦されないものを
私たちもみないようにするわけです。
でも同時に私たちは家族に起きた深刻な出来事
除外された事、人に気づくと
それを
家族の中に戻そうとするのです。
それは何世代も前の出来事な場合もあります。
その戻そうとするときにすることは
除外された出来事と同一視(同じような行動をとる)するとの事です。
例えば親が犯罪を犯してその事を知らずに
子どもは別の家族の元で育ったとします。
しかし青年期になった頃
親と同じように犯罪を起こす事はよくあるとの事です。
そうすると私たちは
「あーやっぱり親がああだから」つまり「遺伝だから」などと納得するわけです。
親が離婚すると子どもも離婚する確率が高くなるなどといいます。
それだって「親もそうだから」などと言います。
しかしそこにあるのは
遺伝子ではないのです。
除外された出来事。
先ほどの例で言えば話されない「犯罪」という事です。
しかし親が犯した犯罪すら
それはもしかしたら親にとどまらずもっと世代が前の出来事が根本となっているのかもしれません。
そしてそこから言える事は
その犯罪の善悪ではなく
それを起こしてしまうにいたった問題は
本人のものというより
その人が育った場の雰囲気…
それは話してはいけない感じとか
過剰に犯罪に対してリアクションをする家族の様子だったり
大人のひそひそ話だったり
何か意味有りげに自分をみる視線だったり
いやそんな事を超えたただの空気かもしれません。
もちろん無意識ではありますが
そこで子どもは知ってしまうのです。
家族自体は場の中にいるので気づけない何かを…
それを
その子は感じて成長していくのです。
そしてその除外された出来事を戻そうと
その子は親と同じ事をする。
(そういった意味で哀しみや怒りの経験を親は隠すのではなく
きちんと表現する事は大切な事とも言えますね。)
心について学んだ方なら、ご存知だと思いますが
「共感」とよくいいます。
しかし共感など超えて、その家族の場の中に置かれた時、私たちは
その人そのものになれるのだと
その人が感じるものと同じ事を感じることができるのだと知りました。
「何ともいえない息苦しさ」、「いつも自分を捉えて離さない哀しみ」
ワークの中でその場に立つとその方の苦しみを私の身体は感じるのです。
読まれている方も信じられないかもしれませんね。
しかし自分のワークを通してそれを確信する経験をしてきました。
非常に深いワークでした。
私はこの経験から
人と人は、とても奥深い所では繋がっているのだと
確信する事が出来ました。
私が感受性が強いからなど関係なく
どなたの中にもあるものです。
つまりその家族システムの中にあったら
今この問題を、抱えていることは必然。
その人個人の問題とか責任にしきれるものではないことを知ったわけです。
私たちは、ある人をみて
「こんな性格だからこんなことが起きるんだ。」
「こんなことを言っているからああなるんだ」
などと個人の責任に押し付けがちです。
しかし以前から私は
その人の親から生まれ、同じ状況で子ども時代を過ごしてくれば今の状況は当たり前で
こういう反応をせざるおえなかったのではないかと思ったりします。
つまりその人でなくても私でも同じようになったのではないかと思ったりしていました。
そういう事です。
更にそこに家族が抱える歴史的な事象や家族が持つ哀しみも私たちは望むと望まざるとに関わらず
持っている事も知りました。
何度もあの世とこの世を行き交うワークがありました。
超高齢化社会を迎えるにあたって、更に大切な視点になるかもしれません。
ある意味ファミリーコンステレーションはファンタジーだと思います。
もう亡くなった方々の過去は真実かどうかは調べようありませんから。
でも私はなんの情報もワークの時に与えなかったのに
母役の方の様子は、私の母そのものの姿でした。
驚くしかありませんでした。
人と人は繋がっている。
そこにあるのは「愛」そのもの。
またなぜ家族の中に戻そうとするかを考えると
そこにも人の「愛」を感じるのです。
日の目を見る事ができるようになどといってしまうと
随分俗っぽくなってしまいますが
除外された人を取り戻したい気持ちが働くのでしょうね。
沢山の方が涙しました。哀しみではなく癒しの涙です。
自分を…自分の人生を確認していました。
本当の自分を地に足つけて生きていくために。
喧嘩の修復
2014年06月12日
お互い思いやりを持って
察しあっていたわりあえるのは本当に素敵な事だと思うけど
多分それって無理なんだと思う
人間はそんなに優しいだけの存在ではありません。
職場でなら自分を譲る事もできるけど
プライベートまでそんな事したくない、できない
それが本音ではないでしょうか。
それでも同居していれば
言いたい放題やりたい放題するわけにもいかず
我慢をしたり、時に思いやりを持ったり、また爆発したりしながら
過ごしているのでしょう。
長年共にいればそれなりの落ち着きどころが見つかって
最後まで過ごす事もあるでしょうし
現代は熟年離婚だって充分ありますから
「もういやだ」と新しい人生を歩み始める方もいるのでしょうね。
新たな人生を歩むとき、
やり直したいと思う時、
これから関係を作っていくとき、
今までのパターンでない方法を見つけなければ
また同じ事になってしまうかもしれません。
どれだけ理想の相手だと思ったって
やっぱりそれは他人で
全てをわかりあう事はできないのです。
本当の気持ちを伝えましょうと
そのために自分を知る事は大切だといつも伝えているのですが
同時に本当の気持ちを
「今まさに喧嘩になりそう」とか
「大切にされていない」と思った瞬間とか
そんな時は様々な思いがぐるぐる回っていますから
本音を見つける事は意外と自分でも大変です。
ちょっと言った一言に相手が噛み付いてきたりすると
もう本音どころか投げ捨てるような言葉を言ってしまい
収拾がつかなくなる。ートホホー
逆に
相手の言葉に黙りこくってしまう方も多いですね。
そうすると相手は言っても無駄と思うようになり
更にコミュニケーション不全になります。
お互いわかりあいたい気持ちがあるなら
少なくとも片方がそう思っているなら
他の方法も試してみましょう。
人間だもの
投げつけてしまう事も、黙ってしまう事もあると思います。
大切なのはその後
そのままにしない事です。
本当の思いを相手に伝える余裕ができたら
伝える事
その上でお互いの接点を探る事
違和感をそのままにしておけば
必ず後々までその事はあなたの心に残っていきます。
表現されなかった思いが
勝手に無くなる事はないのです。
心に残っていれば
「あーまただ」とか「いつも我慢ばかりは自分だ」
元々あった心に更に鎧を身に着けて最強にして次の喧嘩に臨んでしまう事でしょう。
病気は予防が一番大切です。
コミュニケーションも小さな違和感の時が大切なのです。
今 言えなかったからもう言わないではなくて
「あの時さー」
ぜひわかりあってほしいものです。
お互いが言いたい事を言えて
しかもわかりあえるには
それなりの努力は必要なのです。
「土」は、残骸からできている
2014年06月11日
自分の不安の中身は
誰かによって引き出される事が多いけれど
それは誰のものでもない。自分のもの。
同じ状況でも不安にならない人は確実にいるし
その不安を相手が理解するとも限らない
不安を「怒り」と、置き換えても
「喜び」と、置き換えても同じ事。
全ては自分の中で起きていること。
そしてその気持ちは、確かにあなたが本当に感じていることで
それを否定する事は意味がない。
どうぞ受け入れてあげてください。
どんなに酷い、醜い自分であっても。
なぜ受け入れる事が必要なのか?
受けいれる事で初めて違う選択肢を選ぶ事ができる。
最悪から美しい花が咲くこともあるのです。
最悪と思っていたものさえも
そこには必ずあなただけの美しい花の種が眠っています。
例えば
地球を覆う土は、不要となった様々な残骸、死骸から出来ています。
そして私たちの生きる糧を生み出してくれています。
全ては同じ。
だからこそ
全てのあなたの感情を他に押し付けるのではなく
あなた自身が受け入れてあげてください。
日常って
2014年06月10日
男と女がいて料理をするとなると
まだまだ女性がする事が多い
そんな事で喧嘩をするのがいやで
手料理など望まないという男性も増えているように感じます。
食事は生きるために必要なものだし
手料理に勝るものはないとは感じるけれど
女性がするものと決められると
「どうして?」と思う
私は料理をするのが好きだけど
それでも当たり前にされるのはいやだなと思う
私の場合は
料理がいやなのではなく、日常の出来事と片付けられるのがいやなのだと気づく。
これって何でもそうなのかもしれない
外食の際にお金を出すという男性にあったけど
それも当たり前にされたらいやですよね。
日常は仕事のように給料がでるわけではないから
お互いの気持ちの上で成り立つもの
しかも気持ちは見えないし
人間は「慣れる」生き物だから
毎回感謝を言い続ける事は難しかったりする。
当たり前と割り切ればいいのか?
最初に話し合って対等になるように割り振っておけばいいのか。
家族の問題の一端がこんな所にも現れているように思うのです。
ごめんなさい
2014年06月09日
「ごめんね」「ごめんなさい」
口癖の人もいるし、決していわない人もいる。
何かといえば謝られると
謝る事で許されようとする逃げ口上のように聴こえるし
とても謙虚な人のようにも聴こえるかもしれない
自分に自信がない気持ちが、自分が悪くなくても「ごめんなさい」に繋がる事もある
謝るその言葉より自信のなさが相手に伝わり
相手の権威的なものを引き出してしまうという事は事実あると思います。
そんな夫婦は結構多いのかもしれません
逆に…
最近は謝ると裁判で負けるから先に謝ってはいけないなどとも言われるし
謝る事で自分の不備を認めるからと謝る事に抵抗のある方は増えているのかもしれない
男性の方が謝る事が苦手な人は多い気がするけどどうだろう?
さらに謝らない方は自信があるのかというと
やっぱり謝らない方も自分に自信がない方
怒りという感情を内に秘めて相手を軽んじます。
よく世の中では謝る事は美徳?謙虚?といわれる事もありますが
本当に謝る事が必要な場面なのか、私は心で思い返します。
その上で言葉を選びます。
相手を軽んじている自分を感じた時、その意味を考えます。
相手が無意識で私を軽んじていれば
やっぱり私も軽んじてしまう。
その事に気づいた今日この頃
とっても思いやりを持ってくれているようでも
相手の無意識に私の無意識は気づいてしまう。
それは誰でもそう。
こんなに大切にしてくれるのに相手を大切にできないのだろう?
それはちょっとした表情、仕草、態度…
そこで相手を否定しているから。
意識では気づけなくても無意識は気づいています。
「あーそういうことか」
そんな事を思う朝です。
謝れる自分は大切な自分
そこに自分への信頼があって相手への謙虚さがあるなら
「ごめんね」は、本当に生きてくるのかもしれません。
気持ちに寄り添って
2014年06月05日
マンションを仰ぎ見ると
それぞれの家に灯りがあって
その暖かそうな灯りの下
家族の笑顔があるのだろうと思うと
マンションの一つ一つの灯りを眺めながら
その灯りを手に入れることができなかった今の状況に
切なさや哀しみや孤独やどうすることもできない運命のようなものを感じて
心にぽっかりとスースー風が通るような空間を自分の中に見いだしていた。
言葉になどできないおもい。
かつての私も感じていたおもい…
そんな気持ちに寄り添える自分でありたい。
今の私の幸せは未来のあなたである事を伝えたい。
人は変化できる、していく生き物だから。
自信
2014年06月02日
何かをやり遂げる事、成功する事で得る自信は
それが失敗した時には
大きな不振や不満や否定感に繋がってしまう。
いつも成功しないと不安な気持ちになってしまう。
成功体験での自信はそんなもろさを
いつも成功の裏に持たざるおえない。
もろさが不安定な自分に拍車をかけて
生きる事への問いを呼び覚まします。
「自分はなんのために生きている?」
この問いはより幸せに生きたい自分の中から生まれた自然な言葉
本物の自信を自分の中に育むには
人としての「成熟」がキーワードになるように思っています。
〜〜〜〜〜
「人間にとって成熟とは何か (幻冬舎新書) 曾野綾子」
内容紹介
「もっと尊敬されたい」
この思いが
自分も他人も不幸にする。
人はみな平等に年を取るが、
しだいに人生がおもしろくなる人と、不平不満だけが募る人がいる。
両者の違いはいったい何か。
「憎む相手からも人は学べる」
「諦めることも一つの成熟」
「礼を言ってもらいたいくらいなら、何もしてやらない」
「他人を理解することはできない」
「人間の心は矛盾を持つ」
「正しいことだけをして生きることはできない」
等々、自分を見失いがちな人が、後悔しない生き方のヒントが得られる一冊。        〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この著書の内容には色々な意見があるようですが
意図する所は意味あると思います。
自分という曖昧で矛盾した存在
諦めや哀しみを持つ存在
そんな自分を受け入れて
自分に責任を持つ
そこからこそ「自信」は培える。
少し話しが変わりますが
常に…いつでも…
その人の課題が自分の目の前にやってくるものだと驚く思いです。
自分に責任を持つ事を考えた時に
今の私にとっての新たな課題が
人との出会いを通して私に突きつけられています。
自己肯定感や自信についても
「持ったからいい」ではなくて
こうしていつも次の課題が人にはやってくる。
諦めや哀しみや曖昧さやそんな不安定なものを受けいれてこそ
自信という揺るぎないものが手に入る。
そして常にその自信は次の課題という出会いを通して
より深い、より確固たるものになっていく。
人間の成長は
この不安定さと確固たるものを相容れていく過程のようだと思う私がいます。
どんな自分も今の自分にとって必要な事
色々な自分をたのしめる自分でいたいものですね。
記憶
2014年05月29日
記憶というのは実は上書き、再構成できるものです。
出来事自体そこになんの意味もなく起こるだけですが
そこに私たちの心は様々な意味づけをするのです。
新たな出会いがあれば喜び
別れがあればかなしむ。
当たり前の事です。
さて
車がぶつかって、横転している写真を見せられて
「この車は時速何キロでていましたか?」
という質問をしたとき
質問者が
「車がぶつかった」という表現と
「車が激突した」という表現では
相手の答える速度が変わるという研究結果がでています。
そんな事から、その人が生々しい経験をした時に間違った情報を与えると違う風に記憶してしまう事があるとの事です。
なぜえん罪が起こるかという事を調べてる心理学者がいます。
目撃者は最初は「この人が一番犯人に近い」と言っていたのが
質問者の質問によっては「犯人に違いない」にもなるというのです。
そして、その事を拡げてみていくと
作った書類を投げつけられれば
それ自体、ただの事象ですが、
腹が立たない人はまずいないでしょう。
「投げつけられた。」
そこに怒りがあれば、興奮もし、さらにその時の事を思い浮かべ
そういえばこの時もこうだった。
あの時だって、顔が歪んでいたからきっとこうに違いない。
段々曖昧だった記憶は確証に繋がっていきます。
そうして人は
例えば憎しみを
例えば哀しみを深めていきます。
つまり投げつけられて腹が立った時よりも
更に恨みという形で、人を憎んでしまう事があるのです。
経験した哀しみよりも
更に自分への不全感や否定感、生きる意欲の喪失へと繋がってしまう事もあるのです。
自分の記憶についての曖昧さを考えてしまいました。
ただその時も嘘をつかないものがあります。
こうに違いないではなく確かに感じたその気持ちです。
そのとき感じた感情です。
事実は事実として認め
その上で自分の感情に向き合う事こそが
「こうに違いない」と何かにとらわれる心にならないために最も大切なもののような気がしています。
自分の記憶は本物ですか?
認められたい
2014年05月28日
A子さんは、ずっと認められたいと思って生きてきたと言います。
幼かったあの日、お母さんに認めてほしくて
頑張りました。
でもお母さんは、「あなたはやれば出来る子なんだから次も頑張りなさい」
幼かったA子さんは、
理由は理解できなかったけど、哀しい気持ちを一つポケットに入れました。
妹の面倒を見た時は失敗して、怪我をさせてしまいました。
「何のためにあなたがいたの!」
また哀しい気持ちをポケットに一つ入れました。
中学の頃、先生に褒められたA子は
それが嬉しくて嬉しくて漢字0点をとるような子が
次の試験でクラスで一番になりました。
大人になっては仕事で認められたくて
頑張るけど
それは当たり前になり
いくら頑張っても、次の課題を提示され
小さな達成感と大きな課題の前に
焦る気持ちを抱えていました。
そうして貯めてきたポケットに気づいたのは
もう頑張れなくなったとき
溢れるほどに膨らんだ「認められたい」という名の「哀しみ」
「期待」という名の「不安」
A子は他人に依存してみようとしたけれど
それは結局一時の杖にはなっても、自分自身が真に認められる事にはならなかった。
他人軸ではうまくいかない。
人と人との関係はかけがえのないものだけど
自分の軸がなければ、利用される自分、貶められる自分、都合の良い自分にされてしまう。
自らその位置に甘んじてしまう。
そしてA子は
勇気を持って自分に向き合っていきました。
沢山泣いて、沢山笑って
愛おしい自分に出逢っていった。
「自分に出逢う」
これは感動でしかない。
自分を愛おしめると、人もA子を愛おしむようになる。
自分を愛おしむ度合いに応じて
人もA子を愛おしむ。
愛おしむは、オレ様とは全く違う自分。
何も変えない、変わらなくていい
A子のありようがいい
そんな風に言ってくれる多くの存在にも出会っている。
A子は今、「認められたい」気持ちを手放している。
そしてそんなA子を私は今も応援している。
A子のその時々はあなた自身かもしれない。
そして変化したA子は未来のあなたなのかもしれない。
人生は学び
2014年05月27日
本日の昼から申し込みが始まる講座のチラシを眺めながら…
勉強する事は大切な事
人生は一生勉強だと思うからです。
でも同時に
なんのために勉強するのか考えていくと
とても欲張りな自分に気づきます。
また
人生そのものが学びだと思うと
果たして頭でっかちな学びばかりでいいのかという事も
思うわけです。
時間は限られている中で
どこにどのように時間を使うのか。
そんな事を思う朝です。
出会いの素晴らしさ
2014年05月24日
人と人が出会う
出会いの素晴らしさを感じています。
しかしその喜び、それさえも
実は自分の内面で起きている事。
出会っても興味を覚えなければ
そこで関係にまで繋がる事はありません。
「素敵♪」も「やなやつ」も根底では繋がっています。
好感度も嫌悪感もそこをえぐれば
興味があるわけでして
大嫌いなやつが人生の最高の友になるなんて話しは
ざらにあったりするわけです。
さて出会いが同性であっても異性であっても
こんなにわかりあえる存在があるのかと思う事があります。
それはすでに友人とか恋愛とかを超えて
人として尊敬したり、慈しむ自分がいるわけです。
人と人とは違う存在
究極の所では、全てをわかりあう事は無理です。
それでも自分の思いやりを素直に相手に与えられて
相手の素直な気持ちをそのまま受け取れる自分がいる。
意外と
そのまま与えたり、受け取る事はことのほか難しいのです。
ついうっかりしてしまった事に
相手が思いやりがないと怒る事もありますし
自分が怒る事もあるでしょう。
自分の正直な気持ちを伝えると
それはエゴだと否定される事もあるし
その逆で、否定したくなる事もあるでしょう。
私たちは自分の強固な「思考」というフィルターを通して相手をみていますから
そんな現象が起きてしまうのです。
私自身はこのような感情をだいぶ手放せています。
おかげでとっても生きる事が楽になっています。
なぜそのように思えるようになったのか
やはり自分を見つめてきた
これは外せません。
自分の中にある理不尽な感情の元がわかったとき
多くの方のご相談を受ける中で
皆共通して悩んでいる事を知ったとき
自分の中の理不尽さも、多くの人の悩みも繋がっている
それぞれが違う存在ではあるけれど
どこかで繋がっている。
そんな確信を持ったわけです。
「あなたは私で私はあなた。」
私を大切にしてもらえなかったとき
それはその人自身が自分を大切にしていないという事
ある書籍でこんな事を書いていました。
私の目の前にコーヒーカップがある。
それを触ろうとしている私がいてそれに触れる時
実は触れようとしているのはカップの方かもしれないというのです。
カップではわかりづらいかもしれませんが
例えば山登りをしていて
山の頂上に一本の木があり、やっと登りきった時
それが自分を待っていてくれたように感じる。
ダイビングをしたとき
その魚や景色が、自分を待っていてくれたように感じる
絵画を観にいったとき
まるで自分を待っていたように感じる。
そういう事ってありませんか?
それは単なる勘違いですます事も可能かもしれません。
でもそれが本当に勘違いなのかは誰にもわかりませんし
その答えはそれを経験した方にしかいえないでしょう。
自分の中の感じる力をもっともっと信じてみませんか?
それが素晴らしい出会いに繋がっていくことでしょう。
上に伸びる、内に伸びる
2014年05月23日
子どもの成長というのは上に伸びる時期と、内が充実する時期があるものです。
それは身長と体重の伸びでも顕著ですが
心の成長でも同じだと思うのです。
小学校で関わっている子どもたちの中には
なかなかクラスになじめない子どもも
いたりするわけですが
全く動きが見られなかった子どもが
ある時を境に
みるみる動きを見せる時があります。
もちろんそこまでには
内が充実するように色々な働きかけをしているわけですが
そこは客観的には判断できない部分です。
色々な働きかけの中で
とにかく大切なのは、お互いのコミュニケーションだと
私は思って行動しています。
それは親御さんとのコミュニケーション。
先生とのコミュニケーション。
そして最終的にはクラスに戻っていくわけですから
先生と親御さんとのコミュニケーションがスムーズにいくような働きかけ
なわけです。
誰もが子どもの成長を願っているに違いないのに
信頼できないとか、わかりあえないとか、
本当にささいなコミュニケーションの行き違いから
物事はズレて難しくなっていくものだとつくづく思うのです。
なかなかお互いが責められたくない思いを抱いていますから
守りに入ってしまうと難しいのかもしれませんが
「先生、この働きかけ子どもも喜んでいましたよ」とか
「お母さん、こんなに学校で頑張っていますよ。褒めてあげてくださいね」
などと
視点をできた方向、頑張っている所にあてていく事で
少しずつ歩み寄れるような氣がしています。
職員室ばかりにいた子どもが自分からクラスにいく姿
運動会に取り組む姿を見ていると
もう泣けそうな私がいます(笑)
行きつ戻りつの成長ですが
色々な先生を巻き込みつつ
これからも頑張っていきたいと思います。
蟻の巣
2014年05月21日
蟻はえらいねぇ。
どんな所でも巣を作る。
ここに巣を作る事の意義や是非は何も考えない。
淡々と自分のするべき事をするだけ。
えらいなどと言われる事さえ
意味を持たない。
生きる本質だね。
落ち込んでもいい
2014年05月20日
ふと…
私は自分に向き合ってほしいといつも話していますが
現実は結構厳しいから
本当に寄り添ってくれるのかを
信じられなければ向き合う事は難しいのかもしれない。
信じる事ができるほどに
自分に向き合い、落ち込む事ができるような気がします。
人間ポジティブだけでなんて生きられない
そんな事を思う朝です。
人生態度
2014年05月18日
『人生態度』
交流分析では私もオッケーあなたもオッケーというOK•OKの立場が第一の態度として
目指すものです。
もちろんここにいられる事が最良ではありますが
人生色々あればここの立場ばかりにいられない事が多いのも現実です。
では第一の態度でなければどんな態度があるかと言えば
あなたはOK 私はnotOK(あなたはいいけれど私はダメ)
これは、謙虚ともいえますが、必要以上に自分を卑下したりする事もあります。
これを第二の立場と言います。
さらに
私はOK あなたはnotOK(私はいいけれどあなたはダメ)
こちらは自己愛傾向の強い方ともいえます。自分が悪くても他人が悪いと感じがちな所もあります。
これを第三の立場と言います。
さて第一の立場が難しいとき
次の立場としては第二の立場となりますが
私は第三の立場の方がいいではないかと思っていました。
客観的に両者を見れば
自己反省する第二の立場の方が人生の態度としてはいいのかもしれませんが
自分の中を見たとき、第二の立場は自分の悪い所を自分で見つけてきますので
自己肯定感が持てません。
自分はダメという位置から物事見ますから生きづらいように感じていました。
それなら第三の立場の方がいいように思えて仕方ありません。
もちろんこの第三の立場の「私はOK」は、実は偽物の自己肯定感です。
相手を責める立ち位置にいると言う事自体
自分への自信がないわけです。
本当に自分への自信がある方は人を責めてたりなどしませんから。
それでも自分が可愛く思える事はとても大切な気がしていたのです。
自分はダメという立ち位置にいるより
自分は大丈夫という方が、物事上手くいくように思えますし
そもそも自信があるようにも見えますから(たとえはったりでも)
そこから周囲との関係で自己研鑽を積めれば、第一の立場にもいきやすいようにさえ思っていました。
でも最近違うなと感じる私がいます。
もちろん当人にしたら今でも第三の立場の方が生きやすいだろうと思っています。
第二の立場の人はいつでも自分に課題を与えますから、満足し難いものです。
でもね、これが大切な事なんだと。
最近の私は思うのです。
どういう事かと言うと…
第三の立場の人は、仕事や趣味や勉学には頑張る方も多いと思います。
しかし自分の事は基本的に変えたいと思っていないように思うのです。
今の自分が大好きですから、変える必要を感じていないともいえます。
すると、相手を責めたい気持ちと向き合いづらいわけですね。
でも第二の立場は自分はダメだからなんとかしたいと思っていますから
行動する力がつけば
こちらの方が自分と真に向き合えるのだと思うのです。
私も随分向き合ってきました。
今は本当に自分でいいと思えていますし
自分の全てを
時に喜びと共に
時に哀しみと共に受け入れています。
自分に向き合う事は大変です。
でもこれだけ生きやすくなるなら
ぜひとも皆様にお勧めしたい。
何かショックな事があった時に一回だけカウンセリングを使う。
そんな使い方もありです。
せっかく生を受けたのですから
喜びも哀しみも存分に味わってほしいものです。
それが生きる醍醐味ではないでしょうか?
〜〜〜〜
写真は藍染めと友禅が融合してできた生地だそうで素晴らしかったです。
心の理論
2014年05月16日
発達障がいに関わっている方なら一度は聞いた事がある
「サリーとアンの心の理論」
この理論は理解できても
内容がもっと複雑になると
わかりづらい事はあるようです。
しかもこの事が他人とのコミュニケーションの問題に繋がる事もあるので
悩ましい所です。
人はエチケットとしてはっきり口に出さないけれども
当たり前としている事が沢山あります。
これは
「隠されたカリキュラム」といい、これを理解できない方もいらっしゃいます。
誰が教えるわけでもないけれど
当たり前にしてはいけない事、するべきな事
例えば「大人はパジャマは外で着るべきではない」
「あなたが出席するパーティに招待されていない人が周囲にいたら、その人たちの前でその話しをしてはいけない」
配慮として行われている事、常識として行われている事の理解が難しいわけです。
もう少しこれを詳しく見てみましょう。
ー成人アスペルガー症候群の認知行動療法ーより抜粋
隠されたカリキュラム
「友人の家で食事をしていて、だされたものが嫌いなものだったら、
「全くいりません。それは好きではありませんから」という代わりに
『少しだけで結構です。あまりお腹が空いていないので』と言う。」
患者:私は好きじゃないものを食べたりしないわ。ありえないわ。
セラピスト:それを食べる必要はないのです。でもそれを好きではないと言わないようにしてください。
患者:なぜですか?私の好きなものをだすのは、相手にとって当たり前の事だと思います。
セ:あなたのお母様はあなたが実家に住んでいる時、誰かを夕食に招待した事はありますか?
か:ええ、いつもそうしていたわ。母はよく料理をするから。
セ:あなたはその人たちがその食べ物を好きではないと言うのを聞いた事がありますか?
か:いいえ
セ:それはなぜだと思いますか?
か:母の料理が上手だったからです。そして母は誰かがそういったらきっと怒ると思うわ。
セ:なぜ怒るの?
先ほどあなたが誰かの家でだされた食べ物が好きでなかった時にどうするかという事についてあなたが仰った事に戻ってみましょう。
あなたはお客様があなたのお母様に自分の好きな物を提供してもらう権利があるとは思わないのですか?
か:母が一日かけて作った食べ物です。その人たちはそれを食べるべきです。
(ここで患者の言ってる事と患者がしている事に矛盾があります)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜一部省略
か:でもよい友人なら自分の家に相手の好きなものを必ず全て用意しておいてくれると思いませんか?
セ:さぁそれはどうでしょう。あなたのお母さんは最近人を招いたとき何を作りましたか?
か:ラザニアです。とても美味しかったです。
セ:あなたはお母様が事前にそれぞれに電話をしてその人たちの好きなもの、そうでないものリストを作ったと思いますか?
か:いいえ。それは馬鹿げています。
セ:いいでしょう。
あなたはよい友達ならあなたの好むものを必ず全て用意しておくようにするものだとおっしゃいました。
それでは一人一人の好みを確かめないお母様は、よい友達であるための時間がないと言う事でしょうか?
か:母は一日中料理しておいしい食べ物を差し出すのですからよい友達です。
セ:でも私たちはまた同じ質問に戻ってしまいます。招待された方の一人がラザニアを嫌いだったらどうなるのですか?
か:黙って食べるべきです。
セ:このルールが言っている私たち皆がすべき事はその「黙って食べる」それではないのですか?
か:なるほど、わかりました。他の人も私が来る前に食べ物の準備を一生懸命してくれる事を私は忘れていたんだと思います。
その人たちがそれをしているのを見た事がなかったので、考えてみた事がなかったです。でもみんなは私が来る前にそうしてくれているんですね。
以上
私たちは一つの経験から色々なものに応用させて一般化させていきます。
しかしそれが難しい方がいるわけです。
そんなとき周囲の人間は
「なんでこんなことがわからないんだ!」となってしまい、
ご本人は自信をなくし周囲はダメなやつとみなすわけです。
でもこのように見ていくと、理解ができないのではないのです。
ついわかっているはずという思い込みを誰もがしてしまいがちです。
とかく
「自分勝手で他者への思いやりがない」というレッテルを貼るのは簡単ですが
ルールを理解すれば受け入れられるようになるのです。
周囲の最も近い存在がお母さん。
こういう事を一つ一つ深く思い悩むと辛くなってしまいます。
理解する事は大切ですが、全て抱え込まないでくださいね。
ご相談お待ちしています。
人生の道
2014年05月15日
よく人生を一本の道に例えますが…
あなたはあなたの道がある
私には私の道がある
それぞれの道が交差したり、近くに寄ったり
離れた所から声をかけたり
様々な素晴らしい出会い…
そこに人と人の醍醐味があるのでしょう。
それぞれの人間性が触れ合い、絡み合って
寄り添い歩む事もあれば
離れていく事もあるわけです。
人生はその繰り返し。
親や子どもであってもあなたの人生の道上を歩いている存在ではないのです。
自分の人生を1人で歩む事に不安を覚えた昔
誰かに頼りたくて。甘える存在を捜し続け…
誰かを支配したくて。いう事をきいてくれる存在を探し続け…
それは必ず人生をゆがめます。
甘えるのがいけないのではありません。
あなたがあなたらしくいられない事がいけないのです。
「甘えたい」感情「支配したい」感情が根本にあるとき
必ずそこには人間の欲が渦巻きます。
特に「甘えたい」と「支配したい」は大の仲良し。
甘えたい感情、支配したい感情を手放すには
あなたがあなたらしく居続ける事が大切なのです。
結局、1人で歩む事が不安だったことは
無理矢理他者の人生の上に乗っかったり、
道を変えようとしたりする事しかできず
それは自分の人生ではないので早かれ遅かれ破綻をきたすのです。
あなたは人に対してイライラしませんか?
それは普段どこかで自分を貶めているから
あなたの中の支配したい気持ちがうごめくのです。
あなたは人の言いなりになりませんか?
それは自分の人生の放棄という人任せをしているのです。
自分であり続ける所からしか本物の出会いはない。
そしてそこにはやはり自分のありようを知っている。
未熟さに気づいていることで
人に謙虚になれるのではないでしょうか。
楽しいと思う事
2014年05月14日
先日東寺の側で見つけたお風呂屋さん
こういうレトロな感じも今では珍しいですね。
心を健やかに保つには
たまにはマッサージを受けたり、
温泉にはいって身体をのばしたり
食事に気を使ったり
こういう事もとても大切な事です。
私たちの身体は食べたもので出来上がっていて
心もホルモンの影響を強く受けているわけです。
それと共に心は後づけがききます。
お風呂で「はぁ〜ぁ」とくつろぐ事で心が癒され
楽しくなくても笑う事で楽しい時にでるホルモンは分泌されるのです。
だからこそマイナスな事ばかりを言っていたり
いたくない場所にいることは
あなたの心に深い影響を与えるのです。
人生は一度きりです。
若いあなたなら苦しくとも頑張る事はあなたの成長を促す事でしょう。
中高年のあなたなら頑張る事も含めて
「楽しい」をキーワードに、心を健やかに保ちましょう。
今日は暑くなるそうです。
この暑さをどうしたらたのしめるのか
素晴らしい一日というのは、勝手になるのではなく
自分がしていくものです。
いやな上司に怒鳴られて楽しみなんてあるわけがない
だからこそ空の青さに感動する心が大切なのです。
家族が病気で心が塞ぎがち
だからこそ今日一日、命をながらえられた事を感謝できるのです。
そんな風に思えないあなたならカウンセリングをお勧めします。
心も身体も早めのメンテナンスが大切なんですよ。
今日も良き日に♪
自分を本当に思ってくれる存在
2014年05月13日
同じ事をされても感じ方が違う。
特に仕事ではなく友人といった個人的な関係の時でしょうか。
そんな事を感じる事があります。
どちらも私の事を思っての行動ではありますし
よかれと思ってに変わりはありません。
でもその人の心持ちが違う事を鋭く感じる私がいます。
いえ、私でなくても誰もがそんな経験の時には
かすかな違和感を持っているのです。
しかし「そんな事あるわけない」とか
「相手に悪い」などと自分の感じを否定してしまうのです。
でもじっとその時の自分の感じ方の変化を見つめていると
そこには相手の心持ちが透けて私の感じ方となっている
そんな気がします。
本当に私の事を思っているのか
自分が認められたいから(私に何かをしてあげる)の行動なのか
ふとした時に見え隠れします。
そしてそれは
私の事を本当に思ってくれる人がいる事を感じた時にこそ
そうではない行動をする人の偽善さが浮きだってきます。
しかし人というものは悩ましい存在です。
そんな風に本当に思ってくれる人の事を受け入れるかどうかには
こちらの成熟度合いが試されるのです。
自分が認められたい人は過度にやってあげた事を誇示します。
すると受け取る方も「こんなにしてもらったんだから」
そんな風に感謝をします。
でも本当に相手を思っての行動をする方はそういう事を誇示しません。
するとその事の大切さに気づかずに
当たり前としてしまう事が多いのです。
その人がいなくなって初めてわかる存在の大きさに驚く事も
あるのではないでしょうか。
幸せの青い鳥はとても身近な所にあるという話しは
こんな事からきているように感じます。
本当にあなたの事を思ってくれる人はいないのか。
そこに気づけるようになるために
自分自身を見つめ
人間として成熟できるようになっていきたいものですね。
写真は京都の庭でのお地蔵様
可愛いお姿です。
母の日
2014年05月12日
「ママに会いたい」
「どうしたの?」
こんなやりとりから、
「何かきっとあったな」
母の日なんてこれっぽちも私の心にはなく
夜に会う約束をしていました。
ところが蓋を開けると
毎年小さな造花とキーホルダーのプレゼントだった娘が差し出したものは
キャラ弁♪
まさかの手作り弁当に私すっかり感動!
買ったプレゼントなら「うれしい!」だけだったでしょう。
それが
時間をかけてメニューを考えて
私のために作ってくれた事が本当に嬉しくて…
泣いてしまった…
娘:「もう高校2年だからね」
私:「良い子に育ったね〜」
育ててくれている姑にも感謝です。
色々悩む事の方が多いし
何もしてあげれない母親だけど
私が子育てで大切にしてきた一つである食べる事を
しっかり娘も受け継いでくれている事に感動しました。
子育てって大変な事が多いけれど
こんなとき全ての苦労が報われる気がします。
さぁ今日も頑張って仕事しようっと。
ちなみに後2人はなんの音沙汰もありません。
感動も後1、2年かな(笑)

特定疾患
2014年05月08日
http://ja.wikipedia.org/wiki/特定疾患
私はこういった特定疾患の中の一つの種類の患者会で理事をしています。
毎年総会のおりには
この一年で亡くなった方のために黙祷を捧げる
決して落胆できない病気を抱えた方ばかりです。
なぜ理事?
それは、この病気を持つ子どもが私を選んで生まれてきたからです。
ささいな風邪などをお子さんがひいても
治るまでは色々大変でしょう。
それがしょっちゅう
しかも命に関わる病気である事も一度や二度ではない
自分の過去と重ねあわせて
ご両親のご苦労を思わずにはいられません。
我が家は骨髄移植をして治癒しました。
しかし
移植はまだ確立された治療法ではありません。
多量に使う抗がん剤の副作用は正常な細胞にどういった影響を与えるのか未知です。
それでも病院と縁遠くなれた現在に
治療法の進歩を感謝せずにはいられません。
どういった病気なのかもわからず
親として何をしてあげたらいいのか情報がなかったとき
この患者会からもらった情報は非常に私の支えになりました。
主治医以外の医師とも連絡を取り合う事ができ
相談できる事は、わらをもすがる思いでした。
だから今私にできる事をと
理事を微力ながらしています。
明日の夜から総会に向けて京都入りします。
今年の総会の際の講演会は京都大学のIPS細胞研究所
副所長の先生の講演会
骨髄移植ではない治療の選択についての現状を
教えていただきます。
難病に限らず
病気を持った方が家にいる時
一言では表せない思いがある事でしょう。
人生の理不尽さを感じつつ
生きる意味について考えてきます。
発達障がいと環境
2014年05月07日
先日の勉強会での開講記念館内部の写真
こんなに雰囲気ある場所で学べるというのは素晴らしいですね。
さて
特別支援についての学びについても
先日の「さ」の話しに続き
発達特性と脳の働き、また環境の影響が大きいという話しを伺い、
自分の経験と重ねあわせて
思う所がありました。
誰もが持っている発達の特性
それは個性とは少し違うのかもしれませんが
例えば私なら耳で聞いても覚えられないですが
書く事で頭にはいる
視覚優位性があります。
車の運転をしていて通常よりまぶしがる方もその方の特性ですし
すごく匂いに敏感なども特性といえます。
そういう小さな特性、
そこを責められてもどうする事もできない部分
発達障がいといわれる方々は
そういうどうしようもない部分が多くあり
そこを「なぜ?」と責められるわけですから
二次障害を起こしやすい事も納得できるのです。
どこまでが特性でどこからが障がいなのか?
非常に曖昧で非常に個々によるものだと思います。
この時に障がいとなるかならないかは環境だときっぱり講師は話されていました。
「環境か〜」
他と同じ事を求められる事が多い日本では
より厳しいのかもしれません。
講師もいくら子どもを受け入れましょうといわれても
やはり変わった所が多い子どもを完璧に受け入れるなど
いくら親だって難しい
と話されていましたが、自分自身を振り返ってもそれはほぼ無理でした。
だからこそ親が楽になる事が重要なわけです。
「なんとかしなくては」「完璧にしなくては」
この思いは親を苦しめるばかりです。
楽になるためのヒント
楽になるために自分を知る
人生は長くも短い。
苦しむ期間は短い方がいいに決まっています。
それは当事者もご両親もね。
精一杯
2014年05月05日
様々な方のお話を伺う中で
私はいつでも
一人一人は自分のできる環境の中で
その
人のスキルを使って
精一杯 事に対しているといつも思っています。
でも知らなかった。
子どもの中には「さ」の字をこのように書く子どもがいます。
その「さ」も、
子どもなりに考えて書いている事だった。
発達に凹凸のある子の中には
左右認識が弱い子がいます。
そうすると「さ」の字の縦棒をどちらに曲げて書けばいいのかわからない。
だから精一杯のその子の対処として
まっすぐな棒となるわけです。
「いつも、こんな字ばかり書いて!」
この事を知らなければ
「この子はやる気がない」
そう思われるでしょう。
現実にそう思っている先生も多い事でしょう。
昨日の講師は強くいっていらっしゃいました。
「この子は発達障がいだから仕方ない」
「そんな事は絶対ない!」
大人が対処の方法を知らないだけだと。
私は教師ではなく、立場が違いますが
それでもこの事を少しでも伝えていけたらと思わずにはいられません。
だって今まさにそういわれている子の人生は
後戻りするわけにはいかなくって
周囲の諦めが
いつか子どもに移って
子どもが自分を諦めるようになってしまうのだから。
子どもは適正な支援を受ければ必ず伸びる。
どうぞ発達の凹凸のあるお子さんをお持ちのお母さん。
子どもたちの可能性を信じてくださいね。
人はいつでも
自身のスキルを使って、精一杯 事に対している。
子どもも大人も。
揺らぎない思いです。
私はそこにスパイスを加えてあげるような存在。
潤滑油のような存在。
今日も良き日にしていきましょう。
あきれるほどに
2014年05月04日
昨日は逐語勉強会の場で皆様に認めていただいて
とっても嬉しい時間を過ごせました。
「継続は力なり」としみじみ思った次第です。
継続といえば
勉強のために書籍などを読んでいて、その方のエピソードが素敵だと
こんな風になりたい!
なるためにはどうしたらいいのだろう!
いつも思うのです。
それは恐れ多い事は重々承知でも
河合隼雄さんだったり
国分康孝さんだったり
もう日本を代表する大御所だって気にしません。
「こんな事いえる人になりたい〜」
いつもそんな夢を見ています。
昨日の会でも、実はとっても素敵な女性がいまして
カウンセラーとしても大先輩で
コメントは的確、笑顔はチャーミング
憧れの方です。
その方と昼食の席をご一緒させていただきましたので
思わず「私、○○さんのようになれるでしょうか」
と言ってしまいました^^;
満面の笑みで「ずっと学んでいってね」と言われ
「はい!」とこちらも満面の笑み。
私って、全然懲りるという事を知らない人だな〜
と、
自分にあきれつつ
こんな自分は大好きだなと自画自賛(笑)
今日から2日間は明治学院大学で
また別の学びです。
発達に凹凸があるお子さんを持つお母さんに
的確なアドバイスができるように
この分野は日進月歩なので
こちらの学びもおろそかにはできません。
夕べは我が家のワンコが夜中の遠吠えがすごくて
なんだか寝不足ですが
気持ち新たにいってきます。
皆様も良き日をお過ごしください。
アンガーマネジメント
2014年05月01日
最近よくきく、「アンガーマネジメント、アンガーコントロール」
「怒りへの対処」という事ですが
自分に関わる周囲の人に怒りを感じるという事ですね。
ナイフみたいに尖っては 触るもの皆傷つけるばかりでなく(byギザギザハートの子守唄)
いくら表向きにいい人になっても、優しくできても、
心の中に怒りを抱えていては、やはり他人を傷つけるものです。
それは同時に自分をも傷つける行為。
結局ここでもまた、自分を見つめ、怒りの根本を見つめ
自分の中の哀しみに気づく事でしか、本当の意味で怒りは消えません。
むしろ怒りをコントロールする事で
自分の本質がまたみえなくなるような気さえしています。
怒りは大きなエネルギーですからその事を糧に生きる方もいますが
それは破滅的な生き方だと私は感じてしまいます。
怒りは自分を守ってもくれます。
適正に怒りを感じる事も、時には大切なのです。
自分は怒りを感じやすいのか?感じにくいのか?
どちらにしても自分を大切にする事とは離れてしまいます。
頭で怒りをなんとかしようとするのではなく
心で押さえ込んでしまうのでもなく
自分の中の怒りを見つめてみる事は
あなた自身を知る一つの方法。
穏やかな毎日のために、心のメンテナンス
歯を磨くように日常にしたいものです。
人が傷つく時
2014年04月30日
例えば夫婦での会話
例えば恋人との会話
例えば親子での会話
こういった関係での会話はビジネスライクとはいきません。
お互いの中に感情が行き交い、利害も関係するからです。
感情が行き交う
つまりお互いを思う気持ちがある、あったのです。
人は好意を持つ人に対して
何かしらの優しさ、思いやりを持つものです。
たとえば
一緒にビデオをみて相手が寝てしまった。
「あっ、つまらないんだ」
相手が起きた時に、こちらは好意で「こんな内容だったよ」と話しをして
あとはこのビデオについては触れなかった。
こんな事は日常的によくある事です。
しかも相手もみたかった映画だった、実は他の事でもイライラしていた。
こんな時には、こんな些細な事なのに喧嘩が始まる事さえあるわけです。
この「あっ、つまらないんだ」の前提が実は違うこともあるんですね。
相手はただ疲れていただけかも。
寝たところからみたかったかも。
人と人は些細なところから違う存在。
相手の気持ち、相手の想いをはかる事は大切な事ではあっても
完璧に相手がわかる事はないのです。
ここで大切な事がコミュニケーションをとるということ。
相手に「聞く」という事です。
「どうする?寝てたみたいだけど、続きみる?」
「私はみてしまったから○○がしたいのだけど」
こういう話し合いをせずに、わかり合う事はまず無理です。
お互いが相手を本当に信頼し、ゆるせる力量がお互いにあればこの限りではないですが
恋愛の最初でもない限り
そんな事にはならないものです。
相手が変わってくれればなんて思っても何も変化はおきません。
あなた自身がまずコミュニケーションの努力をしてみる。
いつもと違うあなたの態度に必ず相手も変化を見せます。
そこがビジネスとは違うところ。
いえ、もしかしたらビジネスもやっているのは生身の人間。
何も変わりはないのかもしれませんね。
あなたの心の中で起こる「あーこうなのね」「こういう気持ちなのね」
そう思った事にまず気づき
それは自分の思い込みである事に気づきましょう。
それが変化の第一歩です。
強い人間は弱い
2014年04月26日
どれだけ人間は強いのだろう。
弱い自分をさらけることは
ダメな事なのだろうか。
「弱さを見せることは、自分のダメさ加減をさらすようでできない。」
というのは、どういうことなのだろう。
「強くあらねばならない。」
子どもの前では強くあらねばならない?
       何でもできる自分でないとダメ?
妻の前では彼女の前では強くあらねばならない?
       リード出来ない男はダメ?
職場ではできる自分でなければならない?
       仕事出来なければ生きてる資格さえもない?
   そんな事誰が決めたの?
【弱さの中にこそ強さが隠れている】
【弱さの中にこそあなたらしさが隠れている】
威張っていられるときの自分が本当の自分ではない
自信満々のときの自分が魅力ある自分ではない
ため息をつくしかないときこそ
本当のあなたらしさが顔を出す
そしてそこからが勝負なのです。
夢には
2014年04月24日
夢には意味があるものです。
あなたの中の、まだ意識しきれていないあなた自身
心では気づいているあなたの中の本当の気持ち
そこにある 意味を見つめた時
あなたが教えてくれているあなた自身に気づく事でしょう。
自分の事を知るほどに…大切にするほどに…
その意味は重要になってきます。
あなたが夢にしてあなたに教えてくれている何か。
それはどんな意味がありますか?
先日私が見た夢をお伝えしましょう。
〜〜
誰かが私にこう要求します。
「パソコンで音楽が聴きたい。」
私は惜しげもなく買ったばかりのお気に入りのパソコンを
干潮の浜辺に持ち出して
椅子の上に載せて音楽をかけてあげます。
場面は変わり
満潮になって、パソコンが水浸しになっています。
それをただ眺めている私がいます。
〜〜〜
さてここにどんな意味があるのか。
私はすぐにわかりました。
「大切なものを平気で差し出すということは
壊れてしまう事も意味しているんだよ。」
ここにはある出来事も関係しています。
この夢はは私の中の、私だけの意味です。
あなたの中のあなたの意味はなんでしょう。
夢はあなたに大切な事を教えてくれている事が多いです。
「どうにもできない」
ほんとうでしょうか?
変わる気持ちがない事に気づいていますか?
変わらない選択もあなたにはあるのです。
優しい人
2014年04月23日
子どものため、夫のため、両親のため
自分のためなんて後回し
でもそんな人生で本当にいいの?
実は子どものため、夫のため、両親のためになることと
自分のためになることは
相矛盾することはないはず。
ではそれがなぜ上手くまわらないのか。
あなたはとても優しい人。
人への気遣いがとってもできる人
美しい心を持っている人
そして最高に自分をいじめている人
私の周りに集まってくる人は本当に優しい人ばかりと感じます。
なんて柔らかな雰囲気を持っているんだろう。
なんでこんなに気遣いができるのだろう。
そしてみな自分の身体の一部を切り落とすようにして生きている。
それしか道はないと信じている。
決してそんな事はない。
私は心からそう思うのです。
原点に返って
2014年04月22日
昔、私の言葉で「もう一日生きてみよう」という人がいた。
その言葉を聞いて「私も生きてみよう」そう思えた。
今の私の原点を思いだして自然と涙がこぼれる。雨上がりのしずくのような涙。
新たな誓いを自分の中に確認しているそんな朝。よしっ!
重要な他者
2014年04月21日
先日「自分と他人」という日記をアップしましたら
あまり書かなかった「重要な他者」について、かなりのツッコミを入れていただきまして
今日はその事を考えてみたいと思います。
「重要な他者」というのは、あなたにとって身近な存在なわけです。
親、夫、妻、子ども、恋人、人によっては教師などもはいるかもしれませんし親友というのもあるのかもしれません。
その人の人生に大きな影響を及ぼしている人物で
自分も影響を受けているということです。
この重要な他者は、必要なものかどうか、
自己確立できていれば重要な他者はできたらほしいけど無理してそんなもの作らなくていいのか。
それともやはり重要な他者はいた方がいいのか、
そんな話しになりました。
もちろん重要な他者という存在は
他人の第一歩になるわけですね。
ですので対人関係療法では
重要な他者との間で繰り広げられている人間関係は、社会の中でも同じように繰り返されているとみます。
その関係をみていく事でその方のコミュニケーションの癖や考え方が見えてくるし
重要な他者だからこそ
そこで、やり方を見直したり、練習したり、どうだったか検証したりもできるのです。
そういう意味ではそんな存在はあった方がいいでしょう。
でもそこで自分なりの対処を見つけているならば
必ずしも重要な他者は必要ないともいえます。
しかし人間は1人ではなかなか満たされないのも事実。
ここからは、その人なりの選択があるのでしょう。
1人は寂しいから妥協しても誰かといる人生を選ぶ。
いや妥協はできないから、探し続ける。または1人でいい。
今まさにそんな方がいる。
そんな風になれるようにお互いが努力していく。
実は妥協という言葉にもさらに色々な妥協の意味があったり
そもそも私の中では妥協ではなく、やすらぎが重要だったりするのですが。
特に私くらいの年齢になりますと
子育て終わってこれからどう夫婦関係を作っていこうというお悩みも多かったりするのも事実です。
子育ての時期は子どもを一人前にするという大きな目標がありました。
妻も夫もその目標に向けて一生懸命歩むわけですね。
そしてその時、視点は子どもの方に二人とも向かってしまっているわけで
お互いをみていないわけです。
すると視点の先がなくなった時
お互いが躊躇するわけです。
今更 夫(妻)の方を向くのはちょっと。
何のために一緒にいるんだろう。
これからどうしていったらいいんだろう。
そんな調子ですね。
二人はご縁があって共に生きてきた存在です。
子育てもされてきた方なら20年近く共にいる方も多いでしょう。
私は新しい自分の人生を歩み始めましたが
そればかりがいいとは思っていません。
むしろすべてがわかっている存在である重要な他者なわけですから
新たな人を見つけるより
わかり合える可能性は高いと思っているのです。
「でも…」「いまさら…」「どうやって…」
そう皆さんおっしゃいます。
その「でも」の中身はいったいなんでしょう。
そんな事をカウンセリングの中で伺っていくと
共に生活する中で傷ついてきたあれこれがでてきます。
「もういまさら」ではないんです。
心に溜まったあれこれは安全な場所で出してこそ
癒され、自分の力に変わっていくものです。
心の中にある傷つきは実はあなたを支えてくれるものになる可能性があるのです。
重要な他者がいる事で傷つく事もあり、それが成長にも繋がる事は事実です。
傷つく事は怖い事だし、自分のよりどころがあるからそれを支えに生きていくというのもその方の人生です。
つまりは他人と同じではなく、自分はどうしたいのか。
どんな人生を歩みたいのか。
そここそが大切なのだと思うのです。
そしてその決定は誰であっても揺らがす権利はないのです。
道ばたのタンポポはただそのままで生きている
それでいい。それだけでいい。
自分と他人
2014年04月18日
自分を大切にする事と
他人(家族も含めて)を大切にする事は
本来なら相矛盾しない?
私たちは自分という存在を大切にしていきたい生物的な願いがあります。
それは道ばたの草と同じように
他の花は関係なく
自分の置かれた環境の中、自分の花を精一杯に咲かそうとするわけです。
もしアスファルトの狭い空間に多くの花の種があったら
それぞれは他の花に関係なく自分の根を張り、空に身をのばそうとしていきます。
その結果枯れてしまう事もあれば
狭い中で共存する事も
他を枯らせて自分だけ花を咲かせる事もあるのです。
その事は誰も責める事はできない
生物としての存在だと私は思っています。
精神分析的にイドといわれる本能的な部分は誰しもあるものですね。
ただ人間はそれだけではありません。
他者との関係というものが
私たち人間が人間らしくあるもとでもあるわけです。
コミュニケーションは相反する作用をもたらせていますが
他人に主軸が置かれると
「常に他人の目線が気になり、他人を通して自分をみるようになります」
しかし自分に主軸が置かれれば
「他人との関係はwin-winであり、感謝や尊敬が芽生えていく」
自分に主軸が置かれているように見える「俺様!」的な方は
実は自分への自信のなさが「おれ!」発言に繋がっているので自分への主軸とは似ても似つかないものです。
さてここで自分を確立するために他者が必要だ、という意見があります。
全くその通りだと思います。
私たちは本能の思うまま生きたい欲求を一方に抱えながら
もう一方では人と関わり、より自分らしくなりたいとか、人の役に立ちたい、それでこそ生きる意味があるとも考えている存在なわけです。
大きな矛盾を人によっては感じるかもしれません。
対人関係療法では「重要な他者」という概念があります。
あなたに関わっている様々な人の中で
あなたにとって重要な存在、あなたを助けてくれるであろう身近な人間
それは誰でしょうか。
多くは家族であるでしょうし、恋人であるかもしれません。
つまり人生を共にする存在なわけです。
もしかしたら人間はそういう存在がほしくて
異性というものを創り出したという一面もあるのかもしれません。
元々の生物はメスだけで繁殖していたのですから。
カウンセラーである私も
人の役に立ちたい思いで仕事をしています。
残念ながらボランティアには限界を感じていますが。
こちらはお天気も悪いですが
これは久しぶりの恵みの雨
気持ちの持ち方もお天気への見方と同じ側面があるものです。
子どもってすごい!
2014年04月16日
「子どもってすごいな〜」
関わる人が変わり
環境が変わり
家族関係も落ち着き
学校でも配慮しつつも特別にはせず
その子への期待を表すと
確実に変化してくる
「あの子はこうだから変化しない」
「あのお母さんはこうだからな〜」
こんな決めつけがあると
変化はまず起こらない
子どもって今の環境でできる精一杯をしていると思うのです。
どの子でも、いつでも。
「子どもがいう事をきかない」
そう思うならやり方を変えないと子どもは変化しない。
あなたの中の決めつけを変えないと変化しない。
一度出来上がった関係性
それは家族間の関係性だったり
学校での関係性だったり
友人との関係性だったり
一度出来上がってしまうとなかなか変化がおきない。
環境と関係と期待
これらをしっかりみつめられるように
視野を広げてみるために
自分の中のとらわれに気づく事は重要な事だなと改めて感じています。
これって子どもだけではないですよね。
大人も一緒。
今の環境に変化をおこし
人と人との関係を見直し
未来への期待を持てるよう励ます
そう考えると自分自身も同じ。
子どもから教えられたように感じています。
偉大なのは自分
2014年04月15日
交流分析を学んだ方の中には
リトルプロフェッサー(小さな教授)という考えがある事をご存知だと思います。
私たちの中にある直感やひらめきといった
理屈ではない自分を守る術のようなものでしょうか。
ただこれは私たちの気持ちや感情と仲のよい存在ですので、
思考が発達している現代人はなかなか「教授」を活用出来ていないように感じます。
私も最近までよくわからない定義でした。
が…
私も昨日「これがリトルプロフェッサーだ!」と感じたことがありました。
私は目に見えない何かを信じたりするタイプではありません。
肯定も否定もしない立場です。
でも自分の身体に起こる変化にはとても敏感でして
私の意識では人に優しくあろうとするのですが
私の教授は私に本質を教えてくれます。
これからはこの教授をよりどころに生きていくのだろうな。
感じる事を大切にするほどに、自分への気づきが増していきます。
感じる事はネガティブな感情に浸る事ではありません。
あえてポジティブになるのでもないのです。
今まで自分に気づかなかった方は
簡単には教授はでてきてくれないかもしれません。
だって教授は今まであなたの中で大切にされなかった経験におびえていますから。
かつての私もそうでした。
でも大丈夫。
私にも姿を現してくれるようになりましたから。
この世の中、この宇宙。
偉大なる何かがあるのではありません。
あなた自身が偉大な存在なのです。
私はそう思っています。